ドイツ語を和訳すると
「尾根歩き、尾根渡り、稜線歩き」や「縦走」となりますが、比喩的にバランス感覚が必要とされるような危険な状況を言います。このような場合には、日本語や英仏語ではむしろ「綱渡り」(Drahtseilakt, Seiltanz - tightrope walk - funambulisme)と言う方が普通でしょうが、これは章を改めて詳述します。日本語では、「危ない橋を渡る」や「崖端(がけばた)歩き」などと言う言葉もありますし、少し状況設定が違いますが「薄氷を踏むが如し」なども結果的には同じような意味となるでしょう。また尾根は分水嶺となり、歴史的な局面を分水嶺とも言いますが、分水嶺歩きとは言いません。結局のところ「綱渡り」や「バランス」などと訳すのが無難なところでしょう。
中国地方では日本海側の島根・鳥取の県境あたりに西日本第一の大山(ダイセン)が聳えています。筆者も高校時代の夏休みに友人たちとそのあたりでテントを張ってキャンプをしましたが、象ケ鼻から天狗ケ鼻を経由して剣ケ峰へと西から東に連なる尾根を歩いたことがあります。それほどの幅もないところを右と左に滑り落ちないように相当の緊張を要するハイキングでしたが、これは記憶の中だけのことで実際はそれほどでもなかったかも知れません。それでも、このコースは今では縦走禁止となっているくらいですから、やはり険しかったのでしょうが、そんなところを歩けた一昔前はまだまだのどかなことろがあったようです。山の尾根や山稜・分水嶺は
Grat - ridge - arête
で、日本でも登山用語としてこれら独英仏語(グラート、リッジ、アレート)が通じる場合もあります。また英語やドイツ語では、痩せ尾根を言うナイフの刃(Messers Schneide - knife edge)と言う言い方もありますが、これも稿を改めて述べることにします。
では、ドイツ語の簡単な説明を見てみましょう。
„Schatz, findest du, dass ich zu dick bin?“ Wenn jemandem diese Frage von der Partnerin oder dem Partner gestellt wird, sollte man sich ganz genau überlegen, was man darauf antwortet. Man will den anderen nicht belügen, will ihn aber auch nicht verletzen. Die Suche nach einer Antwort, die diesen beiden Aspekten gerecht wird, ist wie eine Gratwanderung. Ein „Grat“ ist die oberste schmale Kante eines lang gestreckten Berges. Der Begriff ist nicht zu verwechseln mit der Maßeinheit „Grad“, die mit „d“ geschrieben wird. Der Grat ist oft sehr, sehr schmal. Deshalb wird er gern auch in übertragener Bedeutung verwendet. Egal, ob man in den Alpen unterwegs ist oder als Chefdiplomat vermitteln muss: Es ist immer wichtig, dass man sich jeden Schritt ganz genau überlegt. Denn wenn man einmal daneben tritt, kann man sich nicht mehr retten. Was ist also die richtige Antwort auf die Frage nach dem Gewicht? Ganz klar: ein langer, leidenschaftlicher Kuss! (Wort der Woche, Felix Forberg: Die Gratwanderung, 11.01.2019)
「ねえ、あなた、私って太りすぎかしら」妻や恋人からこんな風に訊かれたら、何と答えるかは慎重に考えねばなりません。相手に嘘を言うのも何ですし、本当のことを言って傷つけるのも避けたい。この両面を満たす回答を探し出すことは、高い山の危険な尾根歩きのようなものです。「尾根」とは横に伸びた山の細長い山頂です。度量衡の「Grad」(程度)と間違わないようにしましょう。こちらは「d」の綴りです。尾根はしばしばとても狭くなっています。そのためこの言葉は比喩的にも使われることとなりました。アルプス山脈の縦走であろうが、外交交渉のまとめ役となろうが、重要なことは一歩一歩を慎重に確認して進むことです。一度でも踏み外すと一巻の終わりとなるからです。上記体重の問いへの正しい答え方は、ですから、長い長い情熱的な接吻以外にはありません。(今週の言葉、フェリックス・フォルベルク)
2020年の6月頃は、コロナ禍でロックダウンを続ければ経済の痛手となり、緩和すれば人命の危険が大きいと言う状況となりました。
Einig sind Experten, dass saisonale Effekte im Moment dazu beitragen, das Virus unter Kontrolle zu halten. „Das Leben hat sich ins Freie verlagert, wo die Ansteckungsgefahr deutlich geringer ist“, sagt Michael Meyer-Hermann vom Helmholtz-Zentrum für Infektionsforschung in Braunschweig. Im Herbst und Winter, wenn viele Kontakte in wieder geschlossenen Räumen stattfinden, könnten die Infektionen aber erneut ansteigen. „Das Virus ist ja nicht weg, das müssen wir uns immer wieder verdeutlichen“, warnt der Systembiologe. Deshalb sei es auch falsch, jetzt Maßnahmen wie die Maskenpflicht in Frage zu stellen. […] Der Magdeburger Epidemiologe Christian Apfelbacher formuliert es so: „Es bleibt eine Gratwanderung.“ (SZ, Christina Kunkel, 03.06.2020)
専門家は現在季節的効果もあってウイルスの拡散が抑えられているということでは一致を見ている。「生活空間が戸外に移り、感染の危険が明らかに少なくなった」とブラウンシュヴァイク市にあるヘルムホルツ感染症研究センターのミヒャエル・マイヤー=ヘルマン博士は言う。これが秋から冬になると、人との付き合いがまた密閉空間に移るので、感染数が再び増加する可能性がある。「ウイルスがいなくなったのではないから。これを忘れてはなりません」とシステム生物学の同博士が警告する。それだから、今の時点でマスク着用義務などを疑問視するのは間違っていることになる。【…】マグデブルク市の疫学者のクリスティアン・アッペルバッハー博士はこのことを次のように表現している。「綱渡りはまだ終わったのではありません。」(『南ドイツ新聞』クリスティアーナ・クンケル)
ご存じのごとく、上記の記事から2年後もコロナ禍が延々と続いています。
ドイツでは批判的なお笑い番組としてカバレット(Kabarett)がありますが、スイス出身のヘイゼル・ブルッガーがドイツでも名を挙げてきました。
Ich finde es sogar schwierig zu sagen: Wie viel ist Lachen und wie viel ist Auslachen. Ich glaube, viele denken bei mir: Was geht denn mit der Frau? Mein Auftreten ist zum Teil sehr unweiblich. Vermutlich ist es dieses erleichterte Lachen: Zum Glück bin ich nicht so. Zugleich komme ich mir aber auch oft vor wie ein Dolmetscher zwischen etwas höflich sagen und etwas ehrlich denken. Manchmal denke ich, mein einziger Job ist nur diese Gratwanderung. (SZ, Hans von der Hagen/ Hannah Wilhelm: Interview mit Hazel Brugger, 03.07.2020)
それどころか、どれだけが心からの笑いで、どれだけがあざ笑いなのか、判断に苦しみます。多くの観客は私について、あの女(ひと)は何しているんだろうと思うと思います。私がステージに立つときは、ややもすると全然女性らしく振る舞わないからです。それだから、安堵のため息ではなく安堵の笑いかも知れません――自分は、あんなのではなくてよかったと言うような。同時にまたしばしば丁寧に翻訳しながらも、心では正反対のことを思ったりしている通訳になったような気もします。往々にして私の唯一の仕事はこの綱渡りにしかすぎないのかと思ったりもします。(『南ドイツ新聞』ハンス・フォン・デア・ハーゲン/ハンナ・ヴィルヘルム)