正式な名称は
ドイツ・キリスト民主同盟(Christlich Demokratische Union Deutschlands)です。バイエルン州には地方政党のドイツ・キリスト社会同盟(Christlich-Soziale Union Deutschlands)があり、これは日本で言うならば大阪維新の会のようなものですが、両党はキリスト同盟(CDU/CSU)として連邦レベルでは一体となって行動しています。キリスト民主同盟は1949年の結党以来、1863年の全ドイツ労働者協会を起源とする社会民主党(社民党SPD)と共に二大国民政党として戦後ドイツの政治を担当してきましたが、2021年の総選挙で両党共に25%前後の得票率しか達成できず、二大国民政党の時代は終焉したと見られるようになりました。次に凋落の激しいキリスト民主同盟の沿革を端的に描いた記事があったので、少し解説を加えて訳出することにしました。
Der erste Kanzler der Republik regierte 14 Jahre lang. Und was zunächst sehr gut ging für die Christdemokraten, bröckelte am Ende. Es grummelte heftig in der CDU, als Adenauer 1961 noch einmal antrat. Er hing am Amt, wehrte sich aufzugeben. Tatsächlich schaffte er es, nach der Wahl 1961 mit Hilfe der FDP noch einmal Kanzler zu werden. Aber nur, weil er seiner CDU wie dem Liberalen zusagte, das Amt zur Mitte der Legislaturperiode an Ludwig Erhard, den Helden des Wirtschaftswunders zu übergeben. Adenauer wollte das nicht, ihm missfiel Erhards Ruhm gewaltig. Aber die CDU ließ ihn nicht mehr einfach gewähren. Im Oktober 1963 machte er Erhard den Weg frei. Die Partei war damals in der Lage, dem Übervater diese Lösung aufzuzwingen. Die Folge: Sie regierte noch sechs Jahre weiter, erst mit Erhard, dann mit Kurt Georg Kiesinger. Ihre Macht bröckelte, aber bis zu deren Verlust dauerte es. (SZ, Stefan Braun, 09.10.2021)
ドイツ連邦共和国第一代のアーデナウア首相は14年間政権の座にあった。そして最初キリスト民主同盟にとってすべて至極順調に行っていたのが、終わりには至るところで綻びがみられるようになった。アーデナウアが1961年に再度登板した時は、党内には不満が渦巻いていた。それでもアーデナウアは首相の座にしがみつき、辞めようとする気配さえ見せなかった。実際1961年の総選挙の結果、自由民主党の助けでもう一度首相になることに成功した。しかしそれは同党と自党に対して任期半ばで首相の座を奇跡の戦後経済復興の雄ルードヴィッヒ・エアハルトに明け渡すことを確約したからである。アーデナウアはエアハルトが気に食わなかったため、そんなことはしたくなかったのだが、党の総意に基づき1963年10月ついにそうせざるをえないところに追い込まれた。当時のキリスト民主同盟は、結党の偉大なる父にこの選択を迫ったのである。その結果としてキリスト民主同盟は続く6年間政権を維持でき、エアハルトの後クルト・ゲオルグ・キージンガーが首相を務めた。政権はさらに弱体化したが、それでも政権交代に至るにはまだ少しの間があった。(『南ドイツ新聞』シュテファン・ブラウン)
戦前ケルン市長などをしていたアーデナウアはヒトラーとの握手を拒否したため、政界を引退させられ、そこから戦後活躍の機会が与えられることになりました。
Bild 1: Adenauer, Erhard, Kiesinger
戦後当初からキリスト民主同盟はキリスト社会同盟と一体となって政権を担当してきましたが、キリスト社会同盟は各州への拡張を目指したこともあり、またキリスト民主同盟もバイエルン州に進出を図ったこともあり、両党は姉妹党として複雑な関係にあります。アーデナウアの政権末期には、キリスト社会同盟党首のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス防衛相が言論弾圧事件を引き起こし、辞任させられましたが、キリスト同盟の弱体化は避けられないこととなりました。それでもシュトラウスはバイエルン州では圧倒的な人気を誇り、1980年代にはキリスト同盟の首相候補となったこともあるほどです。
西ドイツでは1960年代後半からの世界的反体制運動時には社民党(SPD)が自由民主党(FDP)と連立を組んで政権の座にあり、キリスト同盟は野党に甘んじていましたが、自民党の寝返りにより政権奪取が果たせました。
Der zweite der Großkanzler war Helmut Kohl. Er wurde 1982 über ein konstruktives Misstrauensvotum Kanzler und regierte schließlich 16 Jahre lang. Dabei überstand er parteiinterne Sturzversuche genauso wie maliziösen Spott in den Medien, wo er gerne als „Birne“ niedergemacht wurde. Doch als er Mitte der Neunzigerjahre immer stärker unter Druck geriet, Platz zu machen, wehrte er sich mit Händen und Füßen – und nutzte es für sich, dass zwar viele gerne Wolfgang Schäuble als Nachfolger gehabt hätten, aber sich niemand traute, offen zum Sturz des Kanzlers der Einheit aufzurufen. / Und so marschierte Kohl in einer Art „Bunkermentalität“, wie sein damaliger Generalsekretär Peter Hinze es später ausdrückte, in die Wahl 1998 – und verlor. Die Konsequenz: CDU und CSU landeten in der Opposition. (l. c.)
偉大な宰相の二人目はヘルムート・コールとなる。コール総裁は1982年に建設的不信任案可決で首相の座を獲得し、以来16年間も政権を握っていた。その間、党内の造反や「梨」と揶揄するマスコミの攻撃を切り交わしてきた。それでも1990年代半ばに世代交代の声が高まったが、全力を挙げて阻止した――多くはヴォルフガング・ショイブレを後継者として望んだのだが、大っぴらにドイツ統一の首相を下ろせと言うのに躊躇したことをうまく利用したのである。こうしてコールは当時のペーター・ヒンツェ幹事長が後に言った、一種の「防空壕心理」で1998年総選挙に突入し、惨敗を帰したのである。結果としてキリスト同盟は下野することとなった。(同上)
Bild 2: Kohl, Strauß, Schäuble
コール政権に対する不満が高まってきた時点で折よくベルリンの壁と共に東ドイツが崩壊しました。英米仏ソの旧占領国もベルリンやドイツから撤退(米は一部NATOとして残留)し、コールはドイツ再統一の首相として一躍名声を博することができました。また多くの国民の反対にも拘わらず通貨ユーロの導入に賛成し、欧州統一の一役を果たすことになりました。1998年の総選挙で野党の社民党に敗れ下野し、首相と総裁の座を明け渡しました。その後得体の知れない政治資金の出所源を明かさなかったところから、名誉総裁も辞任せざるを得なくなりました。そこでショイブレ幹事長が新総裁となりました。ショイブレはコール内閣の内相をしていた時に異常性格者に襲われ、一命を取り留めましたが、以来車椅子を使っています。議員の最古参で、今回降りることになる連邦議会議長をしています。