日本の蒸し暑い夏の夜に
怪談を聞いて納涼感を味わうことは、夏の風物詩のようになっていますが、実際に恐怖で身の毛もよだつ、ぞっとするような体験はしたくはないものです。それでもフィクションとしてなら大歓迎で、遊園地のお化け屋敷などのアトラクションも、怖いものみたさと言う心理に十分に対応したものでしょう。同じように恐怖を感じさせるものにホラー映画がありますが、こちらは同じ恐怖のように見えてもその核心は残酷性にあり、夏の怪談的な未知のものの恐怖とは違っているようにも思えます。「ゾーとする」ことに対する言葉はドイツ語や英語でも色々とあり、同義語や類語を挙げてみると、
schaurig, schauerlich, unheimlich, furchterregend, schreckerregend, grauenerregend, Entsetzen erregend, angsteinflößend, grässlich, grauenvoll, grausig, grauenhaft, grausam, makaber, Gänsehaut bekommen, kalt über den Rücken laufen - gruesome, scary, creepy, spine-chilling, spooky, weird, horrifying, horrible, terrible, macabre, cold fear, cold shiver down the spine - effroyable, épouvantable, affreux, bizarre, macabre, avoir le frisson - 怖い、恐ろしい、怖ろしい、恐怖を感じる、身の毛もよだつ、身が竦む、怖気だつ、おびえを感じる、震えおののく、戦慄する、慄然、肌が粟立つ、鳥肌が立つ、震え上がる、背筋が寒くなる、心臓が凍り付く、総毛だつ、血も凍るほどの、血の気が引く/が失せる/を失う、歯の根が合わない
などとほぼ effrayant 一辺倒のフランス語以外は中々に盛沢山です。ドイツ語の動詞は gruseln でゾッとする/させる、名刺は Grusel ですが、これは単一に使われることは稀で、複合語として専ら次に来る語を形容することになります。
百鬼夜行にもいろいろありますが、二つに大別すると、お化けや幽霊の類いと化け物・妖怪変化の類いがあります。前者は元々は人間の魂が死後に幽霊・亡霊・死霊、また生霊などが怨霊として現れるもので、
Geist, Gespenst, Schreckgespenst, Spuk, Erscheinung, Phantom - ghost, spectre, specter, phantom - esprit, spectre, fantôme
などや、またこれらとは反対に人間を守ってくれる守護霊や精霊もいます。さらに家屋や森や川などの自然界にも霊が宿ると考えるアニミズムとなると多くの霊が人間を助けたり、危害を与えたりするようになります。死神や悪魔(冥界や地獄の支配者、キリスト教では堕天使)、エクソシストの悪霊
Demon, böser Geist - demon, evil sprit - démon, mauvais esprit, esprit mauvais
などもこのようなものの親玉格でしょうし、鬼神や魔女も、これらの霊的なものが変化したものでしょう。これらとはまた違って、まったく得体の知れない魑魅魍魎や妖怪変化、天狗や海坊主、吸血鬼ドラキュラやフランケンシュタイン博士の怪物、狼男やミイラ、キングコングやゴジラ(ゴリラにクジラ)、アマゾンの半魚人やゾンビ、エイリアンやボディ・スナッチャーなど人間を脅かすものは、
Monster, Ungeheuer, Oger, Menschenfresser - monster, oger, man-eater - monstre, ogre, mangeur d'hommes
などとなりますが、幽霊などとの区別はそれほど厳密なものではありません。
ドイツでも移動遊園地などには、お化け屋敷が欠かせません。
Gruseln, zittern und staunen im Europa-Park: Schaurig-schöne Halloweenzeit für die ganze Familie: Die Zeit der Geister und Hexen macht auch in diesem Jahr vor Deutschlands größtem Freizeitpark nicht halt: Vom 26. September bis zum 08. November 2020 verwandelt sich der Europa-Park in eine geheimnisvolle Herbstlandschaft und Gruselfans kommen voll auf ihre Kosten. Klapprige Skelette, unheimliche Gestalten und dämonische Nachtgespenster treiben während der mystischen Jahreszeit ihr Unwesen und ziehen Klein und Groß in ihren Bann. […] Dicke Spinnweben, gruselige Hexen und schaurige Gespenster sorgen für eine furchterregende Stimmung. Neben der unheimlichen Dekoration versprechen weitere Highlights wahrhaft schreckliche Gruselerlebnisse. Auf einer Fläche von 95 Hektar verstecken sich zahlreiche mystische Kreaturen, die schreckhafte Gäste zusammenzucken lassen. Durstige Vampire und tanzende Skelette ziehen durch den Europa-Park. Wer nicht aufpasst, wird nach allen Regeln der Geisterkunst erschreckt. (Presse/Europapark, 16.09.2020)
ぞっとし、戦慄し、目を見張らせるヨーロッパ・パーク、全家族の血も凍るハロウィン・パーティー。今年もまた亡霊や魔女がドイツ最大のレジャーパークに押し寄せてきます。2020年9月26日から11月8日までヨーロッパ・パークは、恐怖満杯の秋を迎え、怖いもの好きの人なら存分に楽しむことができるでしょう。この薄気味悪い時期にガタガタ鳴る骸骨、血も滴る妖怪や魔物があたりを徘徊し、大人も子供も一様に魅了されます。【…】大きなクモの巣、おぞましい魔女やおどろおどろしい亡霊たちにより醸し出される戦慄ムード。血の気も引くような仕掛けや数多くのイベントで、真に恐怖の背筋も凍る体験ができます。95ヘクタールの敷地に無数の魑魅魍魎が潜んでおり、多くの人が身の毛もよだつ思いをすることは確実です。生き血を求める吸血鬼やガタガタ騒ぐ骸骨がパーク内を跳梁跋扈し、ぼやっとしていると、あらゆる技巧を凝らした仕掛けに血も凍るほどに驚かされること請け合いです。(ヨーロッパ・パークのニュースリリース)
ギリシャ系アメリカ人の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は明治時代に日本に来て以来、その文化の虜となり、中でも各地に伝わる怪談を纏め上げて本としました。筆者もその中ののっぺらぼうの蕎麦屋などにはゾッとした覚えがあります。1965年に小林正樹監督が、ハーンの『怪談』や『骨董』から四話を選んで映画化しています。
Geschickt knüpfen die unheimlichen Episoden thematisch aneinander an und betonen die symbolische Bedeutung des Übernatürlichen. Die Gespenster und Dämonen verkörpern Reue, Ohnmacht gegenüber Naturgewalten und Furcht vor den unterdrückten Anteilen der eigenen Persönlichkeit. Der durch sie verursachte Schauer endet nicht mit den Gruselszenen, sondern kehrt unvermittelt zurück, wie das Gesicht, welches in der letzten Geschichte einen [sic!] Schreiber (Osamu Takizawa) aus einer Teeschale entgegenblickt. Diese letzte, in der Drehbuchvorlage Lafcadio Hearns wie auf der Leinwand unvollendete Geschichte schlägt kunstvoll den Bogen von der Welt der Sage zur Moderne. (Filmkritik, Kwaidan, Lida Bach)
それぞれ不気味なストーリーがうまく組み合わされて、超自然的なものの象徴的意味を際立たせている。幽霊や魔物は悔悟や自然の威力に対する無力感、それに各人の抑圧された内面への恐怖を体現したものである。これらにより引き起こされる恐怖感は恐怖の場面が済んでそれで終わりとなるものではなく、最後のストーリーで茶碗の中から滝沢修演じる作家を見つめる顔のように突如として再現されるものである。脚本の源となったラフカディオ・ハーンの作品中やスクリーン上でも未完の、最後のストーリーは、伝説の世界を現代へと繋ぐことに見事に成功したと言える。(『映画評論』怪談、リーダ・バッハ)
この評論でeinen Schreiberとあるのはeinem Schreiberの間違いでしょう。動詞 entgegenblicken は三格支配です。ここは少々ややこしいところで、それはストーリーが二重にも三重にもなっているからです。この第四話ではまず武家時代のストーリーとして茶碗の中に映し出された顔があり、そこでストーリーが中断した後に、そのストーリーを書いた作家が行方不明となり、やがて探している人々に向かって作家の顔が水瓶に映し出されると言うことになります。また作家が行方不明となる前に上記のように作家に武士の顔が映し出されたことでしょう。この「最後のストーリー」はそれを書いたハーンにとっては同時代の現代でしたが、私たちにとっては明治で、すでに昭和の初めに「明治は遠くなりにけり」(草田男)と詠まれていたほどですから、はるか昔の近代のようなもので、筆者が監督していたとしたら思い切って現在(昭和40年当時)のストーリーとしていたでしょう。なお上の句は「降る雪や」です(昭和6年)。
『怪談』はぞっとするような話を集めたオムニバスであるのに対して、同じ小林監督が1962年に製作した『切腹』は二重の入子構造になっています。日本では建前のみを重んじる武士道批判と受け取られたようですが、当時中学生だった筆者にはどちらかと言うと後に盛んとなるホラー映画の走りのようなものに思われました。竹光で切腹を余儀なくさせられた武士が苦痛のあまり介錯人に早く首を切り落としてほしいと懇願するのに対して介錯が「いやまだ…」と応じないところは、海外でも残酷の極致と看做されたようで、『切腹』も3年後の『怪談』も共にカンヌ国際映画祭の審査員特別賞を授与されています。その間の1963年には今井正監督の『武士道残酷物語』がベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞しましたが、これもまた後に盛んとなるホラーのジャンルに近いものでした。また2011年には三池崇史が『切腹』のリメイクの『一命』をカンヌに出しましたが、二番煎じは通じなかったようです。また「近代ヒューマニズム」を嘲笑い、切腹に異常なまでの関心を寄せた三島由紀夫が、日本の観衆は映画『切腹』に武士道精神の美学を見ていた(「残酷美について」参照)と言うのは、筆者には単なる独りよがりにしか見えませんが、ここでは深入りはしないでおきましょう。