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La source d'Ingres,  Paris  ©DeepStSky 

0110 Das Pathetische der Dinge もののあはれ VII

2018/10/02 投稿

 恋愛と言うものは通常二人の人間の間に生じる関係ですから、

時には道ならぬ恋に陥って不倫をし、不義密通を重ねることにもなります。『源氏物語』にも少なからず「不義惡行」の下りが見られます。

                さて物語は、物のあはれをしるを、むねとはしたるに、そのすぢにいたりては、儒仏の教(へ)には、そむける事もおほきぞかし、そはまづ人の情(こころ)の、物に感ずる事には、善惡邪正さま\”/ある中に、ことわりにたがへる事には、 感ずまじきわざなれども、情(こころ)は、我ながらわが心にもまかせぬことあり
て、おのづからしのびがたきふし有て、感ずることあるもの也、源氏君のうへにていはば、空蝉君朧月夜君藤つぼの中宮などに心をかけて、逢給へるは、儒仏などの道にていはむには、よにうへもなき、いみしき不義惡行なれば、ほかにいかばかりのよき事あらむにても、よき人とはいひがたかるべきに、その不義惡行なるよしをば、さしもたててはいはずして、たゞそのあひだの、もののあはれのふかきかたを、かへす\/書のべて、源氏君をば、むねとよき人の本(ホン)として、よき事のかぎりを、此君のうへに、とりあつめたる、これ物語の大むねにして…。*1

 実際紫式部は不倫をも厭わない光源氏を川柳で「色男 金と力は なかりけり」と揶揄されるようなひ弱い女たらしとしてではなく、『源氏』を現代語に完訳した円地文子の言葉を借りるなら、「優柔不断な弱気な男と思ったら大間違い」*2で、「唯の浮気など面白くない、危ない橋を渡って、時には一身の大事に及ぶような冒険の伴うところに恋愛の歓喜も昂揚(こうよう)されるという、一種の理想主義者であり現実主義者でもある」*3ように描いています。

 道徳的に非難されるべき不倫の行為であったとしても、その当事者の感情のみに注目すると、その密度の高さから純化された情熱として鑑賞できると言うことになります。すでに見たように道学先生の和辻哲郎などは、この点で平安文化を否定していますが、貴族趣味で育てられた作家の三島由紀夫の場合は、それが作品にも肯定的に取り入れられています。そこで、三島が平安貴族の優雅の存在をどのように見ているかを『豊饒の海』第一巻の『春の雪』で見てみましょう。明治末期に場を設定した、この物語の主人公である新興貴族松枝(まつがえ)家の子息清顕(きよあき)の禁断の恋を取り持つのが蓼科(たでしな)と言う、既に宮家への輿入れが確定している、これまた平安貴族綾倉(あやくら)家の令嬢聡子(さとこ)の侍女です。

                蓼科はいつのまにか、一つの説明しがたい快さの虜(とりこ)になっていた。自分の手引きで、若い美しい二人を逢わせてやることが、そして彼らの望みのない恋の燃え募るさまを眺めていることが、蓼科にはしらずしらず、どんな危険と引きかえにしてもよい痛烈な快さになっていた。/この快さの中では、美しい若い肉の融和そのものが、何か神聖で、何か途方もない正義に叶(かな)っているように感じられた。/ 二人が相合うときの目のかがやき、二人が近づくときの胸のときめき、それらは蓼科の冷え切った心を温めるための暖炉(だんろ)であるから、彼女は自分のために火種を絶やさぬようになった。【…】実際蓼科の役目は聡子を惡から護ることにあった筈だが、燃えているものは悪ではない、歌になるものは悪ではない、という訓(おし)えは綾倉家の伝承する遠い優雅のなかにほのめかされていたのではなかったか? *4

 ここに言われているように「遠い優雅」からの教訓は、「燃えているもの」や「歌になるもの」、これらは道徳を超越したものであり、「道ならぬ」*5恋であったとしても、ひたむきな情動それ自体が「もののあはれ」として価値あるものと言うことになります。

 また一度は熱中した相手に対する感情が変化するのも世の常ですから、その犠牲となり『源氏物語』で帝の寵愛を失った弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の恋敵(こいがたき)の子光源氏に対する憎悪にももののあはれが垣間見られると言うものです。一般には弘徽殿女御はもののあはれを知らぬことによって悪后とされていますが、ここではその所業ではなく、募り重なる執念や憎悪がままならず制御できなくなるまで増長する情動をもののあはれであると見ることになります。また光源氏の心変わりに悩む六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)のように嫉妬心がエスカレートして、生霊や死霊となって恋敵を苦しめたり、挙句の果てには殺してしまったりする*6というのも、またもののあはれの極限であると見られますが、いずれも「人間的な、あまりに人間的な」*7(ニーチェ)生き様(ざま)であると言えましょう。

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           *1    『玉の小櫛』p. 198 現代語訳 さてこの物語はもののあはれを知ることを主眼としているが、筋の展 開においては儒教や仏教の教えに背くようなことも多く書かれている。というのも人の心がものごとから感動を受けると言う点では、善悪や正不正など様々にある中で、道徳的に問題がある場合は感動してはいけないと言うことになるのだが、感情というものはなかなか自分の思い通りにはならないため、抑制するにも限度があって、感動に身を任せることもあるのである。光源氏の場合、夫のある空蝉君・朧月夜君・藤つぼの中宮などの女性に心を惹かれて、逢うことを重ねるのは、儒教や仏教の道徳から言うと、この上なく不道徳なことなので、他にどんな長所があっても、立派な人とは言えないのであるが、その不道徳なところをそれほどには取り上げずに、それよりもしみじみとしたもののあはれの点を余さず描写して、光源氏をその点では立派な人の見本として、多くの長所をこの人格に集中させたのが、こ
の物語の本義としてあり…。
           *2    円地文子『源氏物語私見』p. 126
           *3    同上
           *4    三島由紀夫『春の雪』p. 282
           *5    されば戀の歌には。道ならぬみだりがはしき事の常におほかるぞ。もとよりさるべきことはりなりける。とまれかくまれ歌は物のあはれとおもふにしたがひて。よき事もあしき事も。只その心のまゝによみいづるわざにて。これは道ならぬ事。それはあるまじき事と。心にえりとゝのふるは本意にあらず。すべてよからぬことをいさめとゞむるは。國をおさめ人を教る道のつとめなれば。よこさまなる戀などはもとよりふかくいましむべき事也。さはあれ共。歌はそのをしへの方にはさらにあづからず。物のあはれをむねとして。すぢ異なる道なれば。いかにもあれ其事のよきあしきをばうちすてて。とかくいふべきにあらず。さりとてそのあしきふるまひをよき事とてもてはやすにはあらず。たゞそのよみいづる歌のあはれなるをいみしき物にする也。(宣長『石上淑言』巻2、p. 159) 現代語訳 そうすると恋の歌には、道徳から外れた不埒なことがいつも多くみられることになる。もちろんこのようなことは当然のことなのである。どうあろうとも、歌というものは、物のあはれと言う思いに従って、道徳的なことも不道徳的なことも、すべて心の動くままに詠み出だす技法である。それだから、これは道徳に反すること、あれは禁止されていることなどと、取捨選択してしまうのは本来の姿ではない。すべて不道徳 的なことをしないように教え諭すのは、為政者を教育する方法であり、不倫の恋などはこの点から言うと厳しく禁止されるべきことではある。そうは言っても、文芸としての歌は、そのような見方とはまったく関係のないものである。物のあはれがその本質であるから、まったく別のジャンルに属するものである。いずれにしてもあれはよし、これはよくないなどと言う道徳的評価はさし控え、問題とすることではない。とは言え、不道徳的なことをお手本にできることとして賞賛しているのではない。ひたすらに詠まれた歌にある物のあはれを大したものとして鑑賞することが肝要だと言っているのである。
           *6    夕顔、葵の上、紫の上、女三宮など。夕顔の場合は諸説があって、場の物の怪と言う説もかなり有力ですが、筆者は六条御息所説を採ります。
           *7    Nietzsche: Menschliches, Allzu menschliches.