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La source d'Ingres,  Paris  ©DeepStSky 

0107 Das Pathetische der Dinge もののあはれ IV

2018/09/11 投稿

 すでに見たように

兼好法師は無常観だけではなく、老荘思想などの影響も大きく受けていたようです。そのため、諦観と言うよりも、もののあはれ(情緒深い)なることを主にした人生を送るのがよいとしていたように見受けられます。

 一般的に無常観からは人生に否定的な諦観に至ることが多いようですが、その正反対に兼好法師のように人生を積極的に肯定する態度が導かれることもあります。ドイツでは比較的人口に膾炙(かいしゃ)しているラテン語の格言 Carpe diem (毎日を満喫せよ/充実した日を過ごせ)*1 もこの意でしょう。これは古代ローマ時代の詩人ホラティウスの抒情詩から採られたもので、作者の本意としてはエピクロス的な簡素な生活態度を言っているようですが、一般的には後に悔いを残すことのないように、その日その日を思う存分楽しめ、あるいは意義深く送れ、と言うように受け止められています。これは、当時の欧州が近世初めの30年戦争で荒廃した中で、今この瞬間にも終わるかも知れない人生が無常だからこそ、その一瞬一瞬を精一杯生きることに意義を見出そうという態度に共感が持たれたと言うことになります。

                Carpe diem wurde zu einem zentralen Motiv der Dichtung des Barock. Die Erfahrungen des Dreißigjärigen Krieges führten im 17. Jahrhundert zu einem starken Gefühl der Vergänglichkeit: Vanitas Es ist alles eitel und und Memento mori Bedenke, dass du sterben musst. Daraus entstand zugleich das Bedürfnis, das „Hier und Jetzt“ zu nutzen: „Denke nicht an die Ewigkeit, sondern nutze die Zeit, die dir bleibt, für dein Vergnügen!“ Die Sinnlichkeit des Barock und die Verspieltheit des Rokoko werden zentral auf diesen Appell zurückgeführt. Exemplarisch ist Martin Opitz’ Ode „Ich empfinde fast ein Grawen“ von 1624. Ein Nachklang ist Johann Martin Usteris „Rundgesang“ Freut euch des Lebens, weil noch das Lämpchen glüht (1793). *2
                Carpe diem は、バロック文芸の中心的モチーフとなった。30年戦争の経験は17世紀に無常の感情を広めることとなった――ヴァニタス(虚栄/全ては空しい)およびメメント・モリ(死を忘れるな)。そこから同時に「今ここで」を満喫したいと言う欲求も生まれた――「永遠などを想わずに、自分に残された時間を享楽にあてよ!」バロックの官能性とロココの遊び心は主としてこの要請に還元できる。代表的な例はマルティン・オーピッツの1624年の賛歌「我ほぼ恐怖を感ずるほどに」である。その名残がまたヨハン・マルティン・ウステーリの『輪唱』「ランプがまだ燃えているから、生きていることを喜ぼう」に見られる。

 花見や月見など日本古来からの風習やまた生け花などの鑑賞は、無常観ではなく、「もののあはれ」*3 にその起源があるということはすでに見てきたところです。無常と言うことからこの世を離脱しようとするのではなく、まさにそれだからこそ生の各瞬間を、その一刹那を満喫しようとする審美的態度が生まれると言えます。一面的な無常観のみでは、諦観や厭世観に陥るのが関の山です。生と無常との関りに関しては、西洋のゲーテも芸術家の使命について無常にのみ耽るのではないバランス感覚を強調しています。

           Ich bedauere die Menschen, welche von der Vergänglichkeit der Dinge viel Wesens machen und sich in Betrachtung irdischer Nichtigkeit verlieren. Sind wir ja eben deshalb da, um das Vergängliche unvergänglich zu machen; das kann ja nur dadurch geschehen, wenn man beides zu schätzen weiß. *4
           ものの儚(はかな)さばかり大事ととって、この世の無常観にのみ沈潜してゆく人々は、あはれな人々だ。われわれ芸術家はまさに無常なものを無常でなくするためにいるのではないか。これは、双方にその真価を認めることによってのみ、達成できることな
のだから。

 ヘーゲルの弁証法哲学でも無常の極致である「無」と「存在」とは現実の世界の「成」の二側面をなすに過ぎないことが述べられていますが、これを論じた論理学の端緒の下りは、すでにご紹介しました。

 先にも見た倫理学者の和辻哲郎は、もののあはれを究極的には平安朝に独特な「永遠への思慕」*5 としています。「もの」と言うものを「意味と物とすべてを含んだ、一般的な『もの』」*6 とし、これは「究極のEsであるとともにAllesである」*7 とします。そこから「『もののあはれ』とは、かくのごとき『もの』が持つところの『あはれ』――『もの』が限定された個々のものに現るるとともにその本来の限定せられざる、『もの』に帰り行かんとする休むところなき動き――にほかならぬであろう」*8 と言うことになります。これを言い替えると「『もののあはれ』とは、畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ。喜びも悲しみも、すべての感情は、この思慕を中に含む事によって、初めてそれ自身になる」*9と100パーセント・プラトン主義の観念論で、すべてがイデアとしての永遠の根源ありきに帰着することになります。和辻のこの「もの」は、上述したヘーゲルの「存在」にあたります。止揚されていない存在は、「永遠の根源」などではなく、何もない、からっぽの「無」であるにすぎません。

 和辻によれば、「もののあはれ」は通常の恋愛においても、恋愛の相手を超えた彼岸を求める憧憬であると言うことになります。

            恋する者はその恋人において魂の故郷を求める、現実の人を通じて永遠のイデアを恋する。恋に浸れるものがその恋の永遠を思わぬであろうか。現実の生において完全に充たされることのない感情が、悲しみ、あえぎ、恋しつつ、絶えず迫り行こうとする前途
は、きわまることなき永遠の道である。人生における一切の愛、一切の歓び、一切の努力は、すべてここにその最新の根拠を有する。「もののあはれ」が人生全般にひろまるのは、畢竟このゆえである。*10

 言い換えれば、「もののあはれとは、それ自身に、限りなく純化され浄化されようとする傾向を持った、無限性の感情」*11であり、それ自体は「我々のうちにあって我々を根源に帰らせようとする根源自身の働きの一つ」*12であったと言うことになります。恋愛の相手ではなく、実は天地創造の根拠である無限や永遠が人間に呼び掛けており、と言うことはまた逆に言うと、人間は無限にしろ、永遠にしろ、常に人間の原点を思慕していると言うことが、これまた恋愛の真実であったということになります。そしてこの理想化された恋愛観が結実したのが、「平安朝文芸に見らるる永遠の思慕」*13 であり、本居宣長がそこに「女々(めめ)しきはかなさ」*14 である「もののあはれ」を根底から支える「雅び心」を見出したのに対して、和辻にとっての「もののあはれ」は平安朝に特徴的な退廃の美学に過ぎなかったことになります。*15

 また「物のあはれは女の心に咲いた花である。女らしい一切の感受性、女らしい一切の気弱さが、そこに顕著に現はれてゐるのは当然であらう」*16 とまだジェンダーなどの議論のなかった昭和初期とは言え、永遠により規定された女性の本性を前提としているところなどは、別のところで日々の生活の基盤となる「風土」により人間の基本的心性が培われるとした、和辻の机上の哲学者の面目躍如と言うところとでしょう。

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           *1 Genieße den Tag, nutze den Tag, eigentlich: pflücke den Tag - seize the day - cueille le jour - その日を摘み取れ
           *2 Wikipedia独語版、Carpe diem。また vanitas と memento mori に関しては 0097 Symbol - symbol - symbole - 象徴 VII も参照。
           *3   物のあはれをしるといふ事、【…】たとへば月花を見て感じて、あゝ見ごとな花ぢや、はれよい月かななどいふ【…】。(本居宣長 同上、P. 201)
           *4   Goethe, Aus „Kunst und Altertum“, Werke, Berliner Ausgabe, Bd. 18, S. 497.
           *5 和辻哲郎『日本精神史研究』p. 151、和辻『「もののあはれ」について』。
           *6 同上 p. 150.
           *7 同上。
           *8 同上。
           *9 同上。
           *10   同上 p. 150f.
           *11   同上 p. 151.
           *12   同上
           *13   同上
           *14   同上 p. 152. 本居宣長がどう言っているか見てみましょう。「物のあはれといふ事は忘れはててかへりみぬたうになれるから。物はかなくめゝしき事をば人わろくおろかには思ふぞかし。されどさいふ人もみな心のおくは同じはかなさにて。まぬかれがたき人情なれば。常にこそさかしげに物をいひ。かしこくちふるまふめれど。深く哀しきことにあたりては。かならずめゝしく人わろき情の出来て。えおもひしづめず心まどひもしつべきおりもおほかるもの也。」本居『石上私淑言』p. 152. 現代語訳 物のあはれと言うことを、忘れてしまって顧みないこととなり、何となくはかなくてめめしいようなことは、みっともなくて劣ったものと思われることになる。しかしそう言っているような人でも、心底同じようなはかなさを感じていて、人の心は似たようなものであるため、通常は賢そうなことを言って、賢いような振りをしている人が、実際に非常に哀しいことが起こった場合は、きっとめめしくて見苦しいような感情に浸されて、平静さを保てず、心が乱れることも多くあるのである。
           *15   それは全体として見れば、精神的の中途半端である。求むべきものと求むる道との混乱に苦しみつつ、しかも混乱に気づかぬ痴愚である。徹底し打開することを知らぬ意志弱きものの、煮え切らぬ感情の横溢である。和辻 同上 p. 153.
           *16   同上 p. 154.