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La source d'Ingres,  Paris  ©DeepStSky 

0106 Das Pathetische der Dinge もののあはれ III

2018/09/04 投稿

 吉田兼好の随筆『徒然草』は一般的に無常観の代表的作品と見られています。

しかし実際に読んでみると、その世評に対してかなりの違和感がありますが、これはどこから来るのでしょうか。兼好法師は西行と同じように出家僧ではありましたが、現生のもののあはれから脱却できずに苦しんだ西行とは違い、仏教の無常だけではなく、日常生活におけるもののあはれにも積極的に注目して、そこから人生をむしろ肯定的に見ていたように見受けられます。

         折節のうつり變るこそ、物毎に哀れなれ。物の哀れは秋こそまされと、人毎にいふ めれど、それも然るものにて、今一きは心もうきたつものは、春の景色にこそあめれ。鳥の聲などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やゝ春ふかく霞みわたりて、花もやう\/氣色だつほどこそあれ、をりしも雨風うちつゞきて、心あわたゞしく散りすぎぬ。青葉になりゆくまで、萬に唯心をのみぞなやます。花橘は名にこそおへれ、なほ梅のにほひにぞ、いにしへの事も立ちかへり戀しう思ひ出でらるゝ。山吹のきよげに、藤のおぼつかなき樣したる、すべて思
ひすて難きことおほし。…*1

 また伝統的なもののあはれの典型である月花にも言及しています。

         花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を戀ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情ふかし。…*2

 花鳥風月、ありとある自然の、ありとあり局面がその対象となります。

       萬の事は、月見るにこそ慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きものは有ら じ。」といひしに、またひとり、「露こそあはれなれ。」と爭ひしこそをかしけれ。折にふれば何かはあはれならざらむ。月花はさらなり、風のみこそ人に心はつくめれ。岩に碎けて清く流るゝ水のけしきこそ、時をもわかずめでたけれ。…*3

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           *1 吉田兼好『徒然草』第19段。この段は、清少納言の「春はあけぼの」を手本としたのでしょう。さらに大晦日まで続きます。現代語訳 季節の移り変わりにこそものそれぞれにあはれが感じられる。和歌には「物のあはれは秋が一番だ」とあり、誰もがまたそう言うが、そしてそれもそうなのだが、今一つ 心が浮き浮きとして来るようなところがあるのは、まさに春の景色だ。鳥も軽やかに鳴いて春が来たのが感じられ、のんびりとした陽光が影を落とす垣根の下にも青草が生えてくるようになる頃から始まり、霞(かすみ)も深く棚引くようになると、桜もやっとのことで盛りを迎えたかと思う間もなく、二~三回の春の嵐の襲来で、あっという間に散ってしまう。ほかの草木が青々と茂るようになるまでは、万(よろず)のことに心穏やかには暮らせず、和歌にも橘は昔を思い出させると有名ではあるが、私は梅の香にこそ昔のことをしみじみと思い起こされる。また山吹の花が清く咲き、藤の花がぼんやりと膨らみ、どれもこれも捨てがたいことが多いものだ。
           *2 同上第137段。現代語訳 桜は満開、月は曇りないものだけがよいのではない。和漢朗詠集に「對月戀雨序」とあるように小降りの雨に曇れる月を見るのも、「たれこめて春のゆくへも知らぬ間に待ちし櫻もうつろひにけり」と詠まれたように、病臥して外の春がどうなっているのかも分からないまま、枕元に活けた桜の花も散ってしまいそうな春の一日にもまた哀感があって趣深いものがある。(『古今集』藤原因香朝臣80番)

           *3 『徒然草』第21段。現代語訳 どんなことがあろうとも、名月を見ていれば心が慰められる。「月ほど趣のあるものはない」と言う人がいれば、また「露が本当に情緒深いものだ」と言う人もいて二人が争ったのも、愉快なことではある。季節に恵まれれば、あはれでないものなどないであろう。月や桜はもちろんのこと、風が吹くのでさえ、感慨を覚えさせるものとなる。清流の飛沫(しぶき)が岩に飛び散る光景などは、実に季節を問わずに心が惹かれるものである。
     風に関しては西行の「おしなべてものを思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風」(『山家集』299番)
     が念頭にあったのでしょう。 現代語訳 何の風雅を解さない人にさえいくばくかの感動を呼び覚ます秋一番の風だなあ 

 本居宣長も花鳥風月について「古(いにしえ)人は、月花をめでつる心の深きこと、又それにつけて、思ふ事のすぢを観ぜしほどなど、今の人とはこよなかりき」(『玉の小櫛』p. 241 現代語訳 昔の人は花鳥風月を深く愛して、その感動を歌に詠み、鑑賞したが、現代の人とは全 く違っていた)と言うところから、『源氏物語』からもののあはれについて多く学ぶところがあると述べています。また「さて此物語をつねによみて、心を物語の中の人々の世の中になして、歌よむときは、おのづから古(いにしえ)のみやびやかなる情(こころ)のうつりて、俗(よ)の人の情とは、はるかにまさりて、同じき月花を見たる趣も、こよなくあはれ深かるべし…」(同上P.242)。現代語訳    さてこの物語をいつも読み、作中人物のいた環境に思いを馳(は)せて和歌を詠んだりしていると、自然と王朝文化の雅(みやび)やかな感情に満たされ、現代人の感覚より優れた心情となり、同じ月や桜を見た感慨でも、はるかに深い情緒となるであろう…。

 

 無常の諦観と言うよりは、それだからこそただ一回の生を享受すると言う姿勢と言えます。これは仏教からくる無常ではなく、下に述べるように道教の影響を受けた生活態度のようです。そう言うところから、次の段に見られるように仏教からくる無常が主題とされても、まさにすべてが無常であるからこそ、すべてにしみじみとした情感が感じられていいのだと言うように、無常観とは別の次元における、言い換えれば、ごく普通の人生において見られるもののあはれを賞賛することになりました。

         あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。*4

 これに続いて「命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし」*5とありますが、このかげろふは道家思想を中心とした『淮南子』(エナンジ)にある「蜉蝣」(フユウ)で、仏教の無常ではなく、老荘思想の文脈にあるものです。蜻蛉や陽炎と書いた場合のカゲロウははかない生の無常の象徴となりますが、蜉蝣と書いた場合のカゲロウは同じカゲロウでも、その正反対を表すことになります。そこには

          蜉蝣朝生而暮死而盡其樂 *6

とあり、短い生を精一杯に楽しむ蜉蝣(かげろう)の短い生涯は、無常感ではなく、まさに「もののあはれ」そのものです。兼好法師は次に見るように、仏教だけではなく、道教を始めとする該博な知識を背景としていたようです。

         ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなる。文は文選(もんぜん)のあはれなる卷々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。*7

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           *4 『徒然草』第7段。現代語訳 あだし野の墓地に結ぶ露が消えず、鳥部山の火葬の煙も消え去らないのが通例となるならば、どのようにしてもののあはれもありえるだろうか。この世は無常であるからこそすばらしいのだ。
     なおこれに続いて「命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし」(現代語訳 生命あるものでは、人間ほど長生きするものはない。カゲロウは朝生まれても夕方に死に、夏のセミは春も秋も知らずに死ぬ)とありますが、このかげろふは『淮南子』にある「蜉蝣(フユウ)」で、仏教の無常ではなく、老荘思想の文脈にあるものです。また無常の稿も参照してください。
           *5 現代語訳 生命あるものを見ていると、人間ほど長生きするものはない。カゲロウは朝生まれても夕方に死に、夏のセミは季節の移り変わりを知らずに死んでゆく。
           *6 現代語訳 カゲロウは朝に生まれて夜に死ぬが、その短い生の楽しみを満喫する。
           *7 『徒然草』第13段。現代語訳 一人で灯火の下(もと)で書物を広げ、かって世にあった人々を知り、我が友とできることは、またこの上なく慰めてくれることである。文選にある何とも興趣ある作品群、白楽天の詩、老子、荘子、我が国の知識人の書いたものなら過去のものに趣深いものがある。