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La source d'Ingres,  Paris  ©DeepStSky 

0105 Das Pathetische der Dinge もののあはれ II

2018/07/24 投稿

 前回では

本概念の内容的な説明に追われて、諸外国語への訳を書きそびれてしまいました。もののあはれのドイツ語訳や英語訳の定訳としては、

   das Pathetische (Anrührende) der Dinge - the pathos of things

が挙げられますが、その他にも特に英仏語では様々な意訳が試みられています*1

     sensitivity to / empathy toward / affectedness of / awareness of / poignancy of / tears of ( lacrimae rerum ) things - sentiment des / empathie envers les choses, sensibilité pour l'éphémère

 ただしこの概念の海外での受容においては、無常の観念が混入したものが多く、正確なもののあはれの理解を妨げることとなっています。*2

 と言うことは、もののあはれ自体の示すところは、前回に見た西行の虚空や幽玄の境地、また能楽の花や夢幻、さらに芭蕉の「夏草や…」ほどに侘び・寂(わび・さび)を伴ったものではありません。そうではなく、もっと日常的な生身の感慨であり、ひたすらに外界の多様なことがらに触発され、自然界や世の中のものや出来事が、心の琴線に触れるところに生じる、しみじみとした感動という点に尽きるものです。

          さて又物に感ずとは、俗(ヨ)にはたゞよき事にのみいふめれども、これも然らず、字書にも、感は動也といひて、心のうごくことなれば、よき事にまれあしき事にまれ、心の動きて、あゝはれと思はるゝは、みな感ずるにて、あはれといふ詞に、よくあたれるもじ也*3

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           *1 マーク・メリ『「物のあはれ」とは何なのか』参照。また土田久美子ロシア語訳『源氏物語』研究」(ロシア・東欧研究 2004 巻 (2004) 33 号、p. 80-90)。にも「もののあはれ」の何種かの英語訳が列挙されています。。
           *2 Wikipedia独語版( Japanische Ästhetik )、英語版( Mono no aware )、仏語版( Mono no aware )参照。とは言え、これは何も海外だけの現象ではありません。国内でも混同している人が少なからず見受られます。またメリ(同上)はもののあはれとは「平安時代の美的趣味、平安時代の恋愛観、そして平安時代にあった時間意識とその中に含まれているノスタルジア――時代が経ってからもっと強くなったノスタルジア――からなる概念である」としています。
           *3 本居宣長『源氏物語玉の小櫛』2の巻、p. 202。現代語訳 さてまた物に感動するということは、普通よいことについてだけ言っているが、実はそうではなく、字書にも感は動であると言うように、心が動くことで、よいことでも、悪いことでも、心が動いて、ああはれと思うのは、すべて感動していると言  うことで、あはれと言う言葉に適切な字があてられているのである。
      また別の個所でも「わきまへしりて、其しなにしたかひて感する所が物のあはれ也、たとへはいみしくめてたき櫻の盛にさきたるを見て、めてたき花と見るは物の心をしる也、めてたき花といふ事をわきまへしりて、さてさてめてたき花かなと思ふが感する也、是卽物の哀也」と説明しています(同『紫文要領』巻上、p. 57)。現代語訳 物の道理を知り、それぞれの物に適切に感興を覚えるのが物の哀れである。例えば非常に素晴らしい桜の満開を見て、見事に咲いていると思うのが物の道理を知ることである。見事な満開だということを理解して、本当によく咲いてくれたなと思って感動すること、これがすなわち物のあはれである。
      宣長は、さらに『後撰和歌集』(雑4、1271)の紀貫之「あはれてふ事にしるしは無けれども言はではえこそあらぬ物なれ」(通釈 あはれと言うことには別にこれがそうだと言う印がついているのではないから何がそうなのかはよく分からないが、出会った時には思わずあはれと言わずには言われないものである)も引用しています。(宣長『石上私淑言』p. 108 参照)

 

 前回でも述べたように「心なき」と詠み、出家を遂げた西行の歌には表に出てはいないとしても、無常観が混然として流れており、純日本的もののあはれとは一線を画しているところがあるように見られます。これに比べると松尾芭蕉のすでに見た「夏草や…」ではなく、

        名月や 池をめぐりて 夜もすがら       芭蕉*4

の句の方が、古来からの月見の風習を受けて、儒仏信仰などの影響が認められないと言う点においても、一層もののあはれが端的に表現されたものであると言えましょう。

 この客観の世界と主観の情緒が瞬間的な一致をみるところに成立するもののあはれの美意識は平安期の日本で純粋に近く培養されたとは言え、日本にしか見られない純日本的特質と言うべきようなものではありません。最近スイス人作家のクリスティアン・クラハトがこのような審美的態度に言及しています。

        Das Bewusstsein für die Vergänglichkeit aller Dinge, sagt Kracht in Frankfurt, wecke den Sinn für das Schöne und rufe sanfte Traurigkeit hervor. Sein eigenes Leben beschrieb er als eine „Suche nach Empfindlichkeit dem Ephemeren gegenüber, der Erkenntnis, dass das die Realität unseres Lebens ist.“ (SZ, Felix Stephan, 17.05.2018)
        あらゆるものが無常であると言う意識は――とクラハトがフランクフルト大学詩学特別講義で言っているが、――美しいものへの感性と甘美な悲哀感を呼び覚ます。クラハトは自己の人生は「儚いものに対する感受性の探求にあり、まさにそれがわれわれの生の現実であると言う認識の追求」にあるとしている。(『南ドイツ新聞』フェリックス・シュテファン)

 クラハトのこの見解も少し無常感を強調し過ぎているきらいはありますが、ある程度もののあはれの本質に迫っていると言えましょう。

 もののあはれについては、日中両国籍を保持していた、日本育ちの作家陳舜臣がかなり穿(うが)った見方をしています。

     「嘆息」――これは前後の断絶しうるものである。いや、「しうる」ではなく、そうあるのが本来の嘆息のすがたなのだ。/あるいは余韻がのこって、後のほうを切りすてるのは、いささか困難なこともあるだろう。だが、すくなくとも、前とはシャープに切断されるのがほんとうの形である。/たとえば、ここに一人の商人がいて、手形の期日を心配しながら歩いているとする。ふと彼が上を見ると、堀越しに梅が枝をさしのべており、その枝にふくらみかけた蕾(つぼみ)がついていた。――/「ああ……」/と、その人が嘆息する。これがもののあわれなのだ。/その瞬間、手形の期日のことなどは、彼の念頭から消えているはずである。彼が再び歩きだして手形の心配をはじめるとき、梅の蕾に対したあの嘆息、もののあわれは、消え去るか、あるいはかすかに揺曳するていどであろう。嘆息にもいろんなスタイルがあるだろうが、唐突に出てくるのが本来のすがたである。【…】無意識に口からもれ、自分の心のなかの澪(みお)に落ちこんで消え去る。自己完結のもので、他人とはかかわり合いがない。*5

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            *4 尚白編『孤松』(俳文・芭蕉)。この池は「古池や…」と同じ芭蕉庵中の池と言うことです。
           *5 陳舜臣『日本人と中国人』、p. 86f.