これまで数回にわたり世界苦の諸相を見てきました。
そう言えば、古の日本でも世界苦の最も軽度の形態が詠われていました*1。生活の場を変転の多い浮世と見ていたのは江戸文化ですが、はるか昔の平安の世には憂世と解されていたようで、
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし 在原業平*2
と、咲けばまた散るのもこれが定めかと心乱される中、儚(はかな)くも華やかな桜花が愛(め)でられています。これに続く返歌もちょっと洒落たものになっています。
散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき 詠み人知らず*3
このあたりの心情はこれまでに見てきたような世界苦と言うよりは、本居宣長の言う、日本古来からの「もののあはれ」と言った方がより適切でしょう。
物のあはれをしるといふ事、まづすべてあはれといふはもと、見るものきく物ふるゝ事に、心の感じて出る、歎息(ナゲキ)の聲にて、今の俗言(ヨニコトバ)にも、あゝといひ、はれといふ是也、たとへば月花を見て感じて、あゝ見ごとな花ぢや、はれよい月かななどいふ、あはれといふは、このあゝとはれとの重なりたる物にて、漢文に嗚呼などあるもじを、あゝとよむもこれ也。*4
_________________________________________
*1 昭和初期の欧州に留学した美学者「大西克禮は単なる『あはれ』を一つの派生的美的範疇として論じようとする論文の中でその語を『世界苦』(ドイツ語のWeltschmerz)として定義したこともある」(マーク・メリ『「物のあはれ」とは何なのか』)。また和辻哲郎も平安朝のもののあはれを「世界苦を絶えず顧慮する快楽主義」とか「快楽主義の生を彩る世界苦」などとして、世界苦の一形態と見ています(和辻『日本精神史研究』p. 152)、和辻『「もののあはれ」について』)。
*2 『伊勢物語』第82段、また『古今和歌集』53番も。通釈 一層のこと、咲くと綺麗だが、すぐに散ってしまうような桜などなかったら、春も心静かに過ごせるだろうになあ
*3 『伊勢物語』同上。通釈 見事に咲いてもすぐに散ってしまって何となくはかない気持ちにさせるところにこそ、桜の素晴らしさがあるので、この辛いことの多い世間にそんなにいつまでも変わらずにあるようなものなどないでしょうに。
*4 本居宣長『源氏物語玉の小櫛』2の巻 P. 201。現代語訳 もののあはれを知ると言うことでは、まず 「あはれ」と言う言葉は、元々見たり聞いたり心に響くものごとに対して心が反応する嘆息(なげき)の発声であり、普通に「ああ」とか「はれ」とか言っているのがこのことである。例えば、月や桜をみて感動して「ああ見事な桜だな、はれ、よい月だな」などと言うが、「あはれ」と言うのはこの「ああ」と「はれ」が重なったもので、漢文の嗚呼と言う文字を「ああ」と読むのもこの「あはれ」と言うことである。
これらが慣習化されて、満開の桜を愛でる春の「花見」や中秋の名月を鑑賞する秋の「月見」となります。また『古今和歌集』(84番)や『小倉百人一首』(33番)所収の紀友則の
久方(ひさかた)の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ (通釈 久しぶりに陽光も和やかな春の日なのに、桜の花はなぜこんなにも慌ただしく散ってゆくのだろうか)
も無常が読み取れるにもかかわらず、この意味で取り上げられることがないというのは、この歌が無常観を始めとする、種々のイデオロギーを超えたところで、仏教で言うなら無念無想の境地から もののあはれを歌っているからではないでしょうか。
世界苦が苦悩に沈潜してしまうのに対して、「もののあはれ」の真髄は、苦悩の種となる憂世は憂世としてあるところで、そこに垣間見される美や醜に対する感慨や感興、人生における喜怒哀楽の表出と言うところにあります。また古来からの風習である花見や月見、いずれももののあはれに起因するものとなり、万葉歌人や平安貴族の上流階級で培われたもののあはれの美意識が民衆の次元にまで広められたものと言えましょう。
『古今』や『後撰』に続く『拾遺和歌集』に
春はただ 花のひとへにさくばかり 物のあはれは 秋ぞまされる (読人不知)*5
と、桜が満開の後急速に散ってしまう春と紅葉の後はものみな黄昏て行く秋が「もののあはれ」の観点から比べられています。この歌では、春は桜は散っても他の色鮮やかな花々が咲き乱れる生気ある夏が彷彿とされるのに対して、秋は赤や黄の紅葉を最後に、寂しさを募らせる冬が控えていることから、秋により哀愁の趣を感じ取っています。なお、上に「嘆き」と言うのは、単に悲哀だけではなく、感動的な情動全てをその対象としたものです。
又後の世には、あはれといふに、哀の字を書てたゞ悲哀の意とのみ思ふめれど、あはれは、悲哀にはかぎらず、うれしきにも、おもしろきにも、たのしきにも、をかしきにも、すべてあゝはれと思はるゝは、みなあはれ也、【…】たゞかなしき事うきこと、戀しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずることこよなく深きわざなるが故に、しか深き方をとりわきても、あはれといへるなり、俗に悲哀をのみいふも、その心ばへ也*6
_________________________________________
*5 『拾遺集』511。通釈 春は桜の花が一面に咲いて絢爛豪華ではあるが、もののあはれの点では、秋の方が趣があって優れている。
*6 『玉の小櫛』、p. 202。現代語訳 また中世以降には「あはれ」と言う言葉に「哀」の字をあてて、単に悲哀の意味だけであると思っている人が多いが、「あはれ」は悲哀だけではなく、うれしいことや愉快なこと、楽しいことやこっけいなことなどすべて「あゝはれ」と感じることは、みな「あはれ」である。【…】ただ悲しいことや憂いとなること、恋しいことなど、すべて心に願っても成就さ れないことの場合は、心の負担も大きく、このように心にしみじみと感じられることを「あはれ」と言うのである。普通に悲哀だけを意味しているのも、この意味においてである。
また別の個所でも「大方歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ餘義ナシ、神代ヨリ今ニ至リ、末世無窮ニ及ブマデ、ヨミ出ル所ノ和歌ミナ、アハレノ一言ニ歸ス。」(本居宣長『安波禮辯』、p. 585)現代語訳 総じて歌道には、あはれの一語以外の意味はない。神話時代から現在まで、さらに永遠に、歌われる和歌はすべて、あはれの一語に帰する。
古いところでは『万葉集』(巻18-4089)に大伴家持がほととぎすを評する長歌を残しています。
卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥(ホトトギス) あやめぐさ 玉貫くまでに昼暮らし 夜わたし聞けど 聞くごと 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし (通釈 卯の花の咲く月になると、ほととぎすが愛おしく鳴くが、菖蒲の花を薬玉に貫く時期まで、昼は日暮らし、夜は夜通し、その声を聞く度(たび)に心が動かされ、思わずため息をつき、ああ何ともいい鳥だなあと言わない時はない)
「もののあはれ」の日本文学における初出は、平安初期の紀貫之『土佐日記』と言うことです。その 27日のところには「楫取ものゝ哀も知らでおのれし酒をくらひつれば…」と和歌の興趣を解さない船頭が酒ばかり飲んで…と言うことで、下層の民衆の解するところではなかったことが分かります。同29日のところでは「年ごろを すみし所の 名にしおへば きよる浪をも あはれとぞ見る」と詠まれていま す。通釈この地は長年住み慣れた所と同じ名をしているので、打ち寄せる波を見ていてもしみじみと心に感じるところがあるなあ。
なお宣長と貫之に関しては、大野ロベルト『もののあはれ再考』参照。
もののあはれは優れて日本的な美意識で、これに西行法師などにより仏教を背景とした、諦観的な無常感(観)が加わり、ありとあることの空しさが主題とされたりもします。
飽かずのみ 都にて見し 影よりも 旅こそ月は あはれなりけれ *7 同じく西行の
心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ澤(さわ)の 秋の夕暮れ*8
は三夕(サンセキ)の和歌*9 の一つとして名高いものですが、西行の作風には少しもじめじめしたところがなく、さっぱりと乾ききったものです。出家した北面の武士西行ですからその作品には、桜や月を数多く詠んでいても、仏教に由来する無常観*10 が深く影を落とすこととなり、行き着くところは虚空や幽玄*11 の境地と言うことになります。
願はくは 花の下にて 春死なん その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃*12
ただし虚空と言っても華やかなもので、昼は猫も杓子も花見*13に打ち出るところの満開の桜、夜は煌々と輝く満月の下で迎える波乱万丈の生の終焉とは、なんとまた晴れやかで華麗なイベントでしょうか。旧暦の如月の望月の頃とは、折しも釈迦入滅の日であり*14、ここに仏教の無常が背景となっていることが分かりますが、出家はしたものの様々な、この世への思いを断ち切れなかった西行のジレンマ*15 をここに見ることもできると言えるでしょう。
無常がらみとなると、杜甫の「国破れて山河在り」*16 を念頭に平泉の金色堂を背景にして詠まれた
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡 芭蕉*17
に行き着くことにもなります。こうなると俳諧理想の境地である寂(さび)が問題となって来ますが、それではもののあはれからは遠ざかることになります。
_________________________________________
*7 『山家集』。通釈 京都では飽きもしないで月の鑑賞をしていたが、今旅してみて見る月の方に実際に情緒深いものがあると分かったよ。また同上や『新古今』937番 都にて 月をあはれと 思ひしは 數にもあらぬ すさびなりけり。通釈 京都で月をあはれと見ていたのは、旅にある今から見ると何でもないただのお遊びに過ぎなかったのだなあ。
*8 『山家集』。通釈 出家して俗世の興趣を感じる心などはとっくに捨て去ったはずの私なのに、今しみじみとした感動に浸されるのだった。鴫が飛び立つ水辺に夕空を染めて秋の日が暮れてゆくことよ
*9 これらはもちろん清少納言の『枕草子』冒頭「秋は、夕暮れ」を背景にして歌われたものです。他の二つは、藤原定家の上記「春はただ 花のひとへに」を念頭に置いて歌われた
見渡せば 花も紅葉(もみぢ)も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮
(通釈 あたりを見渡すと、古い和歌に詠まれた満開の桜も真っ赤に色づいた楓(かえで)も何もないのだった。掘っ立て小屋が立っているだけのうら寂しい浜辺に夕空を染めて秋の日が暮れてゆくことよ)
と寂蓮法師の
寂しさは その色としも なかりけり 槙(まき)立つ山の 秋の夕暮れ
(通釈 寂しさは、目に見えるものではないのだった。杉(すぎ)や檜(ひのき)の聳(そび)え立つ深山に夕空を染めて秋の日が暮れてゆくことよ)
で、三夕の歌のいずれも『新古今和歌集』に収められています(順に362番、363番、361番)。
*10 これに関しては「無常」に関する別稿を参照。「もののあはれ」は本居宣長が強調するように、仏教や儒教的要素がまったく混入していないものとして、無常感と一線を画しています。
*11 幽玄と言うことでは、藤原俊成が次の西行の歌(『新古今』625番)がまさしくそれであると賞賛しています。
津の国の 難波の春は 夢なれや 葦の枯葉に 風渡るなり
(通釈 能因法師が詠んだ摂津の国の難波の華やかな春と言うのは夢なのか。枯れた葦の葉が寒々とした風にそよぐばかりだ)
これに対して能因法師の本歌(『後拾遺集』43番)
心あらむ 人に見せばや 津の国の 難波わたりの 春のけしきを
(通釈 興趣を感じる心のある人に見せたいものだ――摂津の国の難波あたりの春爛漫を)
*12 『山家集』。『続古今和歌集』にも。通釈 できれば桜の花が満開の下で死にたいものだなあ。それは二月の十五夜の頃だが。
*13 冒頭の「世の中に たえて桜の…」は、臨時の花見に詠まれた歌で、花見の宴は平安時代にはすでに貴族階級の間では定着していたようです。西行も
花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける
(通釈 人が大挙して花見に押し寄せているが、何も桜の罪ではないよなあ)
と『山家集』に読んでいます。
*14 西行はその願い通り桜の満開の満月の翌日に没したとのことです。
*15 さらに『山家集』から西行
花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に
(通釈 桜の花に愛着を持つ心がなんでまだあるのだろうか。俗世間を捨ててきたはずの私なのに)
*16 国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連なり
家書万金に抵(あた)る
白頭掻けば更に短く
渾(す)べて簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す 『春望』
*17 『奥の細道』参照。