ピカソの平和の象徴としてのハトと平和共存しているのが、
核廃絶運動のピースマークです。これは英語圏ではCNDシンボル*1 と呼ばれているものです。また千羽鶴も非核と平和の象徴となりましたが、これは広島の「原爆の子の像」*2 の由来となった佐々木貞子さんが始めたものでした。
Peace Symbol
原爆の子の像
図1 ピースマーク(CNDシンボル)と原爆の子の像の千羽鶴
それぞれ逆さにしたデザインのようですね。CNDシンボルの出自については、手旗信号のNとDを組み合わせたと言う説もあり、その他諸説が混在しているようです。
Vor genau sechzig Jahren benötigten die britischen Atomkraftgegner ein kraftvolles Symbol für ihren anstehenden Ostermarsch. Sie fragten den Grafikdesigner Gerald Herbert Holtom, ob er nicht eine Idee habe. Holtom probierte ein bisschen was aus und kam Ende Februar 1958 auf dieses Ding mit dem Hühnerfuß. Wie jedes zunächst rätselhaft anmutende Zeichen rief auch das Holtom’sche Friedenssymbol die Interpreten auf den Plan. […] Holtom selbst lieferte eine Deutung, deren aufschreihafte Dringlichkeit auch heute noch anzurühren vermag: Das Symbol stelle einen hoffnungslosen Menschen dar, der angesichts der atomaren Bedrohung die Handflächen nach außen und unten streckt. Hoffnungslose Menschen tun so etwas bekanntlich. Und wer war das Vorbild für die Verzweiflungsgestalt? Es war, exakt, Holtom selbst. (SZ, Das Streiflicht, 21.02.2018)
ちょうど60年前英国の核廃絶運動では目前に迫った復活祭行進に向けての力強い象徴が必要となった。そこで誰かがグラフィックデザインをしているジェラルド・ハーバート・ホールトンに何かいいアイデアがないか聞いてみた。ホールトンは2~3の図柄を試してみて、1958年2月末に鶏の足のイラストに辿り着いた。これ以来一見謎を秘めた記号の例に漏れず、ホールトンの平和のシンボルにも様々な解釈が寄せられるようになった。ホールトン自身による解釈は、今日でもその抗議の大声を上げざるをえないほどの緊迫感から聞く人の心に触れるところがある。このシンボルマークは絶望した人間を表現し、核戦争の脅威の前に掌を外向きに下方に伸ばしていると言うことである。絶望した人間は、そのような態度をとることは、周知のことである。で、その絶望のモデルとなったのは、誰か。まさにホールトン自身であった。(『南ドイツ新聞』ハイライト)
ところ代わって現在のフランスでは極右政党国民戦線が移民排斥を唱えて、最近のマクロンが選出された大統領選挙の決選投票では、投票総数の約3分の1を獲得しています。著名な知識人のアラン・フィンケルクロートはその著書『不幸なアイデンティティ』*3 で一見国民戦線を擁護するかのような持論を展開し、左翼陣営から総スカンを喰らうことになりました。
Ob Finkielkraut sich selbst dessen bewusst ist oder nicht – sein Buch ist Ausdruck eines politischen Umbruchs. So wie Antonio Gramsci früher als Symbol einer scheinbar undogmatischen KP in Italien herhalten musste, so ist Alain Finkielkraut heute der Vorzeige-Intellektuelle eines scheinbar akzeptabel gewordenen Front National in Frankreich. (Jean Birnbaum, Oktober 2013, zit.: in Blume, Frankreich-Blues, S. 109)
フィンケルクロート本人が意識しているかどうかは別として――その著書は政治変動の表現である。かってアントニオ・グラムシがイタリア共産党の一見非教条主義的路線の象徴として喧伝されたように、今日ではアラン・フィンケルクロートが一見普通の政党に変貌したかの観のある国民戦線の看板インテリとなっている。(ジャン・ビルンバウム、ブルーメ『フランス・ブルース』より引用)
実際にフィンケルクロートが極右政党に近いのかは、今一よく分かりませんが、部分的に似たような主張をしているところから、そう取られても仕方がないところもあります。また国民戦線はイメージを少しでも和らげて、中道の有権者を取り込もうという思惑から最近は党名を変更して国民連合( rassemblement national )としました。同じフランス人でもブリュッセルのEU理事会の儀典長ともなると、各国からの賓客を迎えて少しの失敗も許されないところでは、緊張の連続と言えましょう。
Der Tag des Gipfels hat einen Dirigenten, und der heißt Dominique Marro. Der schlanke Franzose, ein ehemaliger Richter, ist Protokollchef des Rates. […] Protokoll ist nicht gleich Protokoll. Bei internationalen Gipfeln – etwa G-8-Treffen mit China und den USA – spielt das Zeremoniell eine große Rolle, da geht es auch um Symbole, die Macht ausstrahlen. In Brüssel steht etwas anderes im Vordergrund, nämlich das Ziel, den Club der 28 möglichst ungestört arbeiten zu lassen. Protokoll heißt hier vorbereiten, antizipieren, auf alles gefasst sein, notfalls Probleme lösen: einen Stromausfall, ein Malheur in der Küche. Alles backstage. (SZ, Daniel Brössler et al. 17.03.2018)
サミットの日には指揮者がいて、その名はドミニク・マーロと言う。元判事の細身のフランス人マーロは欧州連合理事会の儀典長である。【…】儀典は儀典、どれも同じなどと簡単に言い切ってしまえるものではない。G8サミットのような、中国や米国が参加する国際的サミットでは、式典の面が大きな役割を果たす。そこでは、また権力を誇示する象徴が問題とされるからである。ブリュッセルの理事会会合ではこれとは別の視点が前面に出てくる。そこでは 28 ヶ国からなる機関ができるだけ支障なく活動できるように手配することが、その目標となる。ここで儀典と言うのは、準備し、予見し、あらゆることに対する用意が万端に整っていて、非常の際には、問題解決にもあたることとなる――停電や調理時の不測の事態などなど。全て裏方の仕事となる。(『南ドイツ新聞』ダニエル・ブレッスラー他)
____________________________________
*1 Campaign for Nuclear Disarmament. Foto: WPe, Peace symbols, CND
*2 写真 原爆の子の像
*3 L’identité malheureuse. Stock, Paris 2013.