文学の象徴主義は、フランスで起こった一大潮流です。
その一つ、ランボーの『地獄の季節』から
Enfin, ô bonheur, ô raison, j'écartai du ciel l'azur, qui est du noir, et je vécus, étincelle d'or de la lumière nature. De joie, je prenais une expression bouffonne et égarée au possible:
Elle est retrouvée!
Quoi ? l'éternité.
C'est la mer mêlée
Au soleil.
Mon âme éternelle,
Observe ton vœu
Malgré la nuit seule
Et le jour en feu.
Donc tu te dégages
Des humains suffrages,
Des communs élans !
Tu voles selon...
Jamais l'espérance,
Pas d'orietur.
Science et patience,
Le supplice est sûr.
Plus de lendemain,
Braises de satin,
Votre ardeur
Est le devoir.
Elle est retrouvée !
- Quoi ? - l'Éternité.
C'est la mer mêlée
Au soleil.
ついに、おお、幸福だ、理性だ。私は天空から蒼空を、本来は黒色ともいうべき蒼空を引き離した。そして、光という自然の、その黄金の火花となって生きた。歓びのあまり、私は思いっきりおどけて取り乱した表現をとってやった。
あれが見つかった
何が? 永遠
太陽と溶けあった
海のことさ
ぼくの不滅の魂よ
おまえの誓いを守るがいい
独り身の夜と
燃える昼にはおかまいなしに
従って 世間の評判からも
月並みな方向からも
己を解き放って
気ままに飛んでゆくがいいのだ……
――望みもなければ
復活の祈りもない
学問と忍耐 つまりは
責め苦こそが必定(ひつじょう)だ
もはや明日はない
サテンの燠よ
おまえの灼熱こそが
果たすべき務めなのだ
あれが見つかった
――何が?――永遠
太陽と溶けあった
海のことさ
(Une saison en enfer*1 地獄の季節 宇佐見斉訳*2)
筆者なら「太陽と溶けあった海」と言うよりも、「太陽と混じ*4
り合う海」*3 を採ります。この方が、交接すると言う感じがよ
く出ると言うところからですが、もちろん引用なのでそのままに
しておきました。堀口大學は「それは、太陽と番(つが)った海
だ」
と訳していますが、「番う」は現在では番いで飼ったり
している鳥が交尾するというイメージが強く出て、今一つという
ところでしょうか。この詩は『地獄の季節』に収録されていま
すが、ランボーはその前にも単独で『永遠』の題で発表して
おり、そこでは la mer mêlée au soleil が la mer allée
avec le soleil とされていました。そうなると「太陽と共に
去って行った海」となり、夕日が沈む落日の後に残された
漆黒の海であり、これを前にしては純粋に実存的に「空無な夜」
(中原中也)*5 が残るばかりとなります。上記の宇佐美訳では
「独り身の夜」となっていて、セックスの相手もいない空しい夜
というようにかなり違ってきます。人麿の「長々し夜を ひとり
かも寝む」*6 に近づいて来ます。小林も単独発表のところでは
「海と溶け合う太陽」*7 と訳していました。*8
フランス象徴派の詩人で最も有名なのはマラルメですが、次の詩はかなり初期のもので、まだ分かりやすいと言えるでしょう。
Apparition - Stephane Mallarme あらわれ
ステファヌ・マラルメ
La lune s’attristait. Des séraphins en pleurs
Rêvant, l’archet aux doigts, dans le calme des fleurs
Vaporeuses, tiraient de mourantes violes
De blancs sanglots glissant sur l’azur des corolles.
― C’était le jour béni de ton premier baiser.
Ma songerie aimant à me martyriser
S’enivrait savamment du parfum de tristesse
Que même sans regret et sans déboire laisse
La cueillaison d’un Rêve au cœur qui l’a cueilli.
J’errais donc, l’œil rivé sur le pavé vieilli
Quand avec du soleil aux cheveux, dans la rue
Et dans le soir, tu m’es en riant apparue
Et j’ai cru voir la fée au chapeau de clarté
Qui jadis sur mes beaux sommeils d’enfant gâté
Passait, laissant toujours de ses mains mal fermées
Neiger de blancs bouquets d’étoiles parfumées.
月は悲しみに沈んでいた
涙にくれた翼の天使が夢見心地に弓を持ち
湿った花々に囲まれながら ビオラを弾くと
白く咽ぶ音は紺碧の花弁の上をすべっていった
あれは初めて君の接吻に祝福された日
わたしは自分の夢に殉教し
悲しみの匂いに酔った
その匂いに後悔も消えうせ
夢は心の中に舞い戻っていくのだった
私は古びた敷石に目を向けつつ歩んでいた
すると太陽の光を髪に受けた君が
夕べの街角に微笑みながら現れたのだ
君の姿は光の帽子を被った妖精のようで
少年の頃に夢の中で出会った気がした
妖精のいつも開き加減の両手からは
薫り高い星屑が雪のように降っていた
(Apparition*9あらわれ*10)
詩人にとっての詩の女神( Muse )とも言える、最愛の妻との最初の接吻、光と闇との明暗の判然(はっきり)とした心象風景です。
日本でもすでに江戸前期に和歌の前半を独立させて、極端に縮小した叙述の平面を象徴の空間とする俳句の形式が松尾芭蕉により確立されました。
「古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音 芭蕉」
日本でこれを知らぬ人はまずいないであろうと思われる俳句中の俳句ですが、感覚的に言って象徴主義であるといえるでしょう。
ここでは単なる、古池を巡る静けさではなく、この静けさを打ち破る音により元の静けさが打ち消された後、相乗効果の働きで一層しんとした静けさが提示されていることになります。単なる静けさだけだと、そのうちに聴覚が麻痺してきますが、そこで一度打ち破られた静けさは、その衝撃音との対照により、一層の質的深化を得ることになります。言い替えると、後の静けさは先の静けさと蛙飛び込む水の音とが共に止揚されて保存された静けさであり、ここに質的に飛躍を遂げた、新たな次元の静けさが出現することになったと言えます。またその背景には、多分芭蕉庵の傍にあったと言われている、古くに造られた池と言う日常的人工物とカエルと言う自然界の生物が対照的に置かれていて、自然界における動き(運動)を呑み込み、止揚した非自然(古池)の静止状態の、まさにそこに、日常の中にありながら、その日常を超えた異次元の閑寂(さび)を見出しているとも言えましょう。日本を代表する世界的俳句の簡単な弁証法的解釈をしてみました。
____________________________________
*2 ランボー全詩集 宇佐見斉 訳 ちくま文庫 1996年第1刷、筑摩書房
*3 小林秀雄訳『地獄の季節』
*4 「ランボー詩集」昭和26年発行、平成23年88刷、新潮文庫
*5 講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」
*6 「ランボオ詩集」創元社、昭和23年発行。
*7 「中原中也が訳したランボー「永遠」L‘Éternité」参照。
*8 柿本人麿の上の句は「あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の」です。『拾遺集』。『百人一首』にも収録。
*9 Apparition
*10 あらわれ