UA-74369628-1
Ihre Browserversion ist veraltet. Wir empfehlen, Ihren Browser auf die neueste Version zu aktualisieren.

                                                         Ingres, la sourceIngres, la source 

La source d'Ingres,  Paris  ©DeepStSky 

0061 Nullsummenspiel - zero-sum game - jeu à somme nulle - ゼロサムゲーム

2017/01/11 投稿

 現代の経済学や政治学では、数学的モデルを用いたゲーム理論なども盛んに援用されています。

 その場合よく見かけるのがこの言葉で、敵の得点は味方の失点と言う場合です。

「参加者の得点と失点の総和(サム)が0(ゼロ)になるゲームのことをさす。対戦者同士が一定の得点を争いあうようなゲームなどが代表的である。ゼロ和とも呼ばれる。」(オンライン金融・経済用語辞典

 昨年は国民投票で英国がEUから離脱することになったり、法螺吹きトランプが大統領に選出されるというどんでん返しがあったり、驚くべきことの多い年でしたが、そのトランプが2日後には大統領に就任します。既に何件かメキシコへの投資計画を断念させて意気揚々としていますが、実際に経済に詳しいのかどうかは未知数です。

        Für Trump ist Ökonomie ein Nullsummenspiel: Ein Auto, das in Land A gefertigt wird, kann nicht in Land B produziert werden. Wer Marktanteile gewinnen oder mehr Jobs im Inland schaffen will, muss also einem anderen etwas wegnehmen. Doch das ist Unsinn: Produktionsverlagerung ins Ausland und lange internationale Lieferketten helfen vielmehr dabei, einen Kostenmix zu kreieren, der die Fertigung preissensibler Waren erst ermöglicht und damit Jobs auch daheim sichert. Anders gesagt: Müssten Autobauer alle Pkw im Inland fertigen, könnten sie bestimmte Modelle schlicht nicht mehr anbieten. (SZ, Claus Hulverscheidt, 18.01.2017)
        トランプは経済がゼロサムゲームだと思っている。車がA国で生産されるならば、B国では生産されえない。市場シェアを拡大したり、国内雇用を創出しようとするならば、他の国からその分取り上げなくってはならない。この考え方はしかしナンセンスである――海外への生産拠点移転と国際的分業の長いサプライチェーンによってむしろ価格敏感商品の合理的価格ミックスが初めて形成され、それがまた国内雇用の確保に利するのである。言い替えれば、自動車メーカーが全車種を国内生産しようとするならば、一定車種の提供ができなくなるのである。(『南ドイツ新聞』2017/01/18、クラウス・フーバーシャイト)

 自動車の部品の中にはアメリカとメキシコの国境を7回行き来しているようなものもあると言うことです。そんな場合、メキシコからアメリカに行く 3 回にそれぞれ 35 % の国境税を掛けることになりますが、そんなことは不可能でしょう。妥協したとして、それを 1 回とみなしても 35 % です。採算が合うかどうか。いや合わないのが分かっているから、そうするのだとトランプは言うでしょう。それでメキシコの工場建設を中止すると宣言したフォードのように製造業が米国内に戻って来ても、メキシコの5~6倍の国内賃金を払えますか。話は変わって、ドイツでは年も明けて早々にフィッシャー元独外相がロシアとの付き合い方について、ロシアはゼロサム的な見方しかしないと警鐘を鳴らしています。

        Auf dem europäischen Kontinent zu leben, heißt mit Russland als Nachbarn zu leben, und Nachbarschaft muss generell auf Frieden, Kooperation und gegenseitigem Respekt gründen. Zumal wenn es sich um die Nachbarschaft mit einer Atommacht handelt. Und die Europäer werden sich in Zukunft weniger denn je Illusionen erlauben können. In Moskau wird Außenpolitik  nicht als Win-Win-Spiel betrachtet (beide gewinnen), sondern als Null-Summen-Spiel (ich gewinne, du verlierst). Deshalb geht auch für ein solches Denken nationale militärische Stärke und Einflusszone immer vor kooperativer Sicherheit. (SZ, Joschka Fischer, 09.01.2017)
        ヨーロッパ大陸に住むということは、ロシアを隣国とすることであり、総じて近隣関係は平和・協力関係・相互に敬意を払うことに基づくものでなくてはならない。これは隣国が核保有大国であるならば、なおさらのことである。また将来ヨーロッパ人はこれまでのような幻想を抱くことを許されない状況となってきた。モスクワでは外交はウィンウィンゲーム(両者ともに勝ち)とは見られず、ゼロサムゲーム(私が勝ち、君は負け)と見なされる。そのためそういうような考え方をとるならば、協力関係に基づく安全保障よりも軍事力と勢力範囲が優先されることになる。(『南ドイツ新聞』2017/01/09、ヨシュカ・フィッシャー)

 そもそも欧州統合で東方への拡大路線を敷いてきたことがロシアを窮地に陥れた一要因であるとも言われていますが、欧州知識人の間では欧州統合はゼロサムではないウィンウィンの状況であると看做されています。

        Der europäische Mehrwert ist schwer zu definieren und in den seltensten Fällen quantifizierbar. Unstrittig ist dagegen, dass EU-Aktionen einen Zusatznutzen bringen: Die europäische Integration ist nämlich kein Nullsummenspiel. (EP, 2010-12-16, SURE_DT(2010)454599_DE, Arbeitsdokumente Nr.1 zum Konzept des europäischen Mehrwerts)
        European added value is hard to define and rarely quantifiable. However, there is a consensus that European action has added value: European integration is not a zero-sum game. (EP, 2010-12-16, SURE_DT(2010)454599_EN, Working Paper No. 1 on the concept of European Added Value)
        La valeur ajoutée européenne est difficile à définir et rarement quantifiable. Cependant, il existe un consensus selon lequel l’action européenne apporte une valeur ajoutée: l’intégration européenne n’est pas un jeu à somme nulle. (PE, 2010-12-16, SURE_DT(2010)454599_FR, Document de Travail No 1 sur le concept de "valeur ajoutée européenne")
        ヨーロッパの持つ付加価値の定義付けは難しく、その価値の大小も決め難い。これに反してヨーロッパのとる行動が付加価値をもたらすことに対する異論はない――欧州統合はゼロサムゲームではない。(欧州議会、ワーキングペーパー)

 欧州連合がルーマニアやブルガリアを加盟国にしたのは、安価な労働力を求めたためであったとすると、両国にとっては本当にウィンウィンであったのかどうか分かりかねますが、かって植民地の宗主国も植民地にとっては優秀な文化の洗礼はウィンウィンであると言っていたのとどこか似ているような気もします。

 アドルノやホルクハイマーに続くフランクフルト学派第2世代のハーバマスが権力から自由なコミュニケーションを模索していますが、公共圏が一定の権力となりえることは明らかです。不明なのはその条件でしょう。これに関して第3世代のデミロヴィッチがこの権力関係について言及しているのを見てみましょう。

        Die vollständig demokratische Gesellschaft ist die öffentliche und offene Gesellschaft. Zwar läßt die normative Öffentlichkeitstheorie das Verhältnis zwischen der Norm der Öffentlichkeit und der empirischen Entwicklung der Öffentlichkeit seltsam /170/ im Unklaren, so wenn Habermas von der „gut funktionierenden Öffentlichkeit mit nichtvermachteten Kommunikationsstrukturen“ spricht (Habermas 1993; 172) – und sich die Frage stellt, wo es solche machtfreie Kommunikation gibt. Doch aus den dargestellten Überlegungen Benhabibs läßt sich ein Hinweis schlußfolgern: das Verhältnis von Norm und Macht erscheint als eine Art Nullsummenspiel. In dem Maße, wie sich die Norm der Öffentlichkeit durch Protest der BürgerInnen realisiert und Öffentlichkeit als Sphäre der Freiheit durchgesetzt ist, wird die Macht zurückgedrängt. Öffentlichkeit und Macht stehen sich gleichsam äußerlich gegenüber. In diesem Hin und Her der Kräfte hat aber auch Öffentlichkeit selbst eine Form von nicht-mächtiger Macht: nämlich die Macht, durch zwanglosen Zwang die Macht einzuschränken. Am Ende dieses Prozesses hätte sich die Norm zur empirische Wirklichkeit einer machtfreien Öffentlichkeit entfaltet, Norm und Wirklichkeit würden identisch. (Demirovic, Demokratie und Herrschaft, S. 169f.)
        完全に民主的な社会は、公共的で、開かれた社会である。規範的な公共圏の理論が、公共圏の規範と公共圏の経験的発展の関係を曖昧にしたままにすることは希である――例えばハーバマスは「遺産として継承されてきたのではないコミュニケーション構造をもつ、良く機能する公共圏」(Habermas 1993; 172) について語りながら、同時に、そのような〝権力から自由なコミュニケーション〟は一体どこにあるのか、と自問している。しかしながら既に述べたベンハビブの考察の帰結として、以下のことが暗示されている。それは、規範と権力の関係が一種のゼロ・サム・ゲームとして現れてくるということである。公共圏という規範が市民の抗議によって現実化し、公共圏が自由の領域として貫徹される度合いに応じて、権力は押し戻される。公共圏と権力は、言わば外的に対峙し合っているのだ。こうした力の往復の中で、公共圏も非権力的な権力、つまり強制なき強制によって権力を制約する権力という形式を取るようになる。このプ/268/ロセスの最後には、規範は、権力から自由な公共圏という経験的な現実へと発展し、規範と現実は同一になるわけである。(デミロヴィッチ『民主主義と支配』pp.171)

 総和が与えられている中で得点の取り合いをすれば、ゼロサムゲームになります。公共圏という規範が一種の権力として機能し、現実の権力に対する非権力的な権力として現れたところで両者の拮抗関係がゼロサムゲームになるかどうかは本当のところよく分かりませんが、片方が強くなれば、もう一方が引き下がるような感じはしないでもありません。そうでない場合、弾圧・圧制や民衆蜂起・革命と言うことになるでしょう。

最終更新 2017/01/18