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La source d'Ingres,  Paris  ©DeepStSky 

0060 Sein - being - être - 存在 IV

2017/01/02 投稿

 丸山眞男が

確か『「である」ことと「する」こと』というような題でエッセイを書いていました(『日本の思想』所収)。そこでは地位を重んじる考え方が「である」につながる静態的な態度であるのに対して、行為を重んじる考え方が動態的な「する」につながり、そのように躍動的に人生を生きるのがよいというような趣旨であったと思います。これは封建制に胡坐をかいている貴族と進取の気性に満ちた新興ブルジョワジーのもつイデオロギーの違いとも照応していることになります。また権利の上に胡坐(あぐら)をかいて、その権利を主張する行動をとらないでいるような怠け者は、その権利を失うというのが時効の原理であるというようなことも書かれてあったように思います。これによく似た構成の題に精神分析に基礎を置く社会心理学者エーリッヒ・フロム( Erich Fromm )の “To Have Or To Be?“ ( 1976, dt.: Haben oder Sein ) があります。「持つ」と「ある」の基礎的な動詞に関して、その発想における根本的な違いを述べたものですが、ここではフロムの説の紹介は省略して、「持つ」と「ある」に一貫した基本的な同一性について論じることにします(上記の「である」はコピュラで助動詞)。

 日本語の話者なら簡単に了解できるでしょうが、日本語では本来所有・帰属関係を表現するのに「持つ」という動詞よりも、「ある」を使うことが多いようです。

        からす なぜなくの?

と訊かれて

        カラスの勝手でしょ

などとひねくれたことを言ってはいけません。後が続かなくなります。ここはひとつ素直に応じましょう。

        からすはやまに かわいい 
        (1)ななつのこが あるからよ(作詞 野口雨情、作曲 本居長世)

七つの子が7歳の子なのか、7羽の子なのか、よくわかりませんが、とにかく年齢不詳の子ガラスが最低1羽いるということは確実です*1。もちろん前回見たように子がらすを動くものと捉えて「いる」とも言えます(0053 Sein - being - être - 存在 III 参照)。

        (2)いつまでも あると思うな 親と金(川柳)

親も生きていれば動きますから上と同じく「いる」とも言えますが、金の場合はお足と言われてすぐに逃げ出したりしても、これは比喩ですから、「いる」とは言いません。

        (3)「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。
        『ダンマパダ』 『ブッダの真理のことば・感興のことば』(岩波文庫19頁)*2

この場合も上記と同じことが言えます。

 「ある」を「持つ」で表現することは、決して日本語に特徴的な言い方ではありません。言語学者のライオンズの言うところでは、アラビア語の場合はこの構文しかありません*3。またスラブ語やケルト語も同様ということです*4。ソシュールの静態的見方を批判したバンヴェニストによれば多くの言語には「持つ」という言い方がまったくなく*5、またラテン語のようにあったとしても「ある」と言う言い方の方が古くから使われ、前者は後者から発展して造られたと言うことになります*6。さらに同じような言い方が「特に上部ドイツ語の話される地域」*7でも見られます。

        (4)Das ist mir. *8
        それは私のだ。

これは所属関係をはっきりさせるために一般的に

        (5)Das gehört mir.
        それは私に所属する/私のものだ。

と言うのと変わりありません。

 これで「ある」を使った形がドイツ語にもあることが分かりましたが、その他中国語でも同じことが言えると思います*9

                                                                  

*1         子ガラスは7歳かも知れませんが、そうならばもうかなりの成鳥と言うことになり、子ガラスとは呼べなくなります。またカラスが7羽も一度に子を産むことはないと言うことですし、一つ考えられるのは作詞者が自分か親戚か誰かの7歳になる子を念頭に置いてこの詞を作ったのではないかと言うことで、作詞者に近かった人が述べているようです。

*2             http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000009vfq.html

*3         Benveniste 1974, S. 219.

*4         Lyons 1971, S. 400. ロシア語には「持つ( imetj )」と言う動詞もあるにはありますが、一般的用法ではないということです。Cf. l.c., S. 403.

*5         Benveniste, l.c., S. 219.

*6         l.c, S. 220.

*7         Schmidt 1973, S. 160.

*8         この構文の成立には、ロタール・シュミットによれば、おそらく文法的に模範とされたラテン語の影響が大きいと言うことです。Cf. l.c.

*9         Cf. Lyons, l.c., S. 401ff. ただしライオンズは中国語の動詞「有」を「持つ」とのみ解釈しているようです。そうすると、

 (6)这儿有十个人。Zhèr yǒu shí ge rén. ここに10人の人がいます。

では「ここ」が「10人の人」を「持つ」とみるのはまあ大目に見るとしても、

 (7)桌上有书。Zhūo-shàng yǒu shū. 机の上に本が一冊あります。
 (8)黑板上有一张地图。Hēibǎn shàng yǒu yī zhāng dìtú. 黒板に一枚の地図があります。

     などになると「桌上」や「黑板上」が「书」や「地図」を「持つ」ということで、かなり苦しい解釈と言わざるをえません。そのため中国語の動詞「有」を使う構文は「持つ」というよりも「ある」の構文とみた方がよく理解できるように思われます。なおその本というように特定な本を指す場合は

 (9)书在桌上。Shū zài zhūo-shàng. 本は机の上にあります。

というように動詞が変わります。((6)と(8) http://china.younosuke.com/03_023.html、(7)と(9)Lyons, l.c., S. 401.)