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La source d'Ingres,  Paris  ©DeepStSky 

0054 Schein vs Sein 仮象vs存在 II

2016/10/27 投稿

 仮象( Schein )なるものが大きく問題とされるようになったのは、古代ギリシャのプラトンの哲学からでしょう。

 プラトンによれば、個々の事物は真実在であるイデアに肖(あやか)った二次的な存在に過ぎず、そのためヘラクレイトスの言うような万物流転する世界における現象( Erscheinung )であり、真の実体性を否定された仮象であると言うことになります。言い換えると、現実の世界は理想的世界の単なる陰影以外の何ものでもないということです。このようなイデアの世界が御伽ばなしであるとしても、その背景には概念的存在の領域が現実的個物の世界に対応しているという事実があります。そこからどちらが本来的な世界なのかということを巡って観念論と唯物論という、二つの世界観的立場が出てきます。宗教的世界観の極楽浄土や天国などもイデアの世界の焼き直しと言えるでしょう。

 Schein の構造については、ドイツ観念論の大御所ヘーゲルがその『大論理学』で Sein との関係において詳述しています。

        Das Wesen aus dem Sein herkommend scheint demselben gegenüberzustehen; dies unmittelbare Sein ist zunächst das Unwesentliche. Allein es ist zweitens mehr als nur unwesentliches, es ist wesenloses Sein, es ist Schein. Drittens: dieser Schein ist nicht ein Äußerliches, dem Wesen Anderes, sondern er ist sein eigener Schein. Das Scheinen des Wesens in ihm selbst ist die Reflexion. (Hegel, Logik, 1. Teil, 2. Buch, 1. Abschnitt, 1. Kapitel: Schein)
        存在に由来する本質は、存在に対峙するように現れる。この直接的存在[定在]は、先ずは非本質的なものである。ただそれは第二に単なる非本質的存在以上であり、それは本質を伴わない存在であり、仮象である。第三に、この仮象は外的なもの、本質にとっての他者なのではなく、本質それ自体の現れなのである。本質が自己内へ現れることは、反省である。(ヘーゲル『大論理学』)

(注) scheinen という言葉は、「現れる」と訳しておきました。現象と訳さなかったのは、カントの物自体と現象( Erscheinung )と抵触することになるため、カントも受け継いでいるヘーゲルの場合、後に整合性が失われることになるからです。原義を考慮して現照、照現、照英、英照、現輝、輝現などと造語してみても、何だか男の子や坊さんの名前のようであまりしっくりしません。

 ヘーゲルは存在( Sein )と無( Nichts )から成( Werden )の否定としての定在( Dasein )を導出しました(「定在」の項も参照)。この定在は、その内容をなす本質( Wesen )と比べた場合、その抽象態ですから、仮象( Schein )に過ぎないということになります。

        Das Sein oder Dasein hat sich somit nicht als Anderes, denn das Wesen ist, erhalten, und das noch vom Wesen unterschiedene Unmittelbare ist nicht bloß ein unwesentliches Dasein, sondern das an und für sich nichtige Unmittelbare; es ist nur ein Unwesen, der Schein. (Hegel, Logik, 1. Teil, 2. Buch, 1. Abschnitt, 1. Kapitel: Schein, A. Das Wesentliche und das Unwesentliche)
        存在または定在はそのため自己を他者として持つのではない。というのも本質は存在し、維持されており、そしてまだ本質から区別された直接的なものは、単なる非本質的定在などではなく、即自かつ対自的に虚無な直接的なものなのであるから。それは非本質、仮象に過ぎない。(同上)

 存在がその展開において全く虚無な定在としての仮象として規定されましたが、これは定在が本質の抽象態であるということに他なりません。この仮象は何の現実性もない、欺瞞を目的として作られるような単なる仮象なのではなく、本質が存在から自己内へ反省した形態、蛇や蝉の抜け殻のようなもので、言ってみるならばシステム内における必要性を担った必然的仮象( notwendiger Schein )ということになります。先に述べた蜃気楼や逃げ水などもいわば必然的仮象のようなもので、何の裏づけもないものではありません。

        Das Sein ist Schein. Das Sein des Scheins besteht allein in dem Aufgehobensein des Seins, in seiner Nichtigkeit; diese Nichtigkeit hat es im Wesen, und außer seiner Nichtigkeit, außer dem Wesen ist er nicht. Er ist das Negative gesetzt als Negatives. [...]  So ist der Schein das Phänomen des Skeptizismus oder auch die Erscheinung des Idealismus eine solche Unmittelbarkeit, die kein Etwas oder kein Ding ist, überhaupt nicht ein gleichgültiges Sein, das außer seiner Bestimmtheit und Beziehung auf das Subjekt wäre. »Es ist« erlaubte sich der Skeptizismus nicht zu sagen; der neuere Idealismus erlaubte sich nicht, die Erkenntnisse als ein Wissen vom Ding-an-sich anzusehen; jener Schein sollte überhaupt keine Grundlage eines Seins haben, in diese Erkenntnisse sollte nicht das Ding-an-sich eintreten. Zugleich aber ließ der Skeptizismus mannigfaltige Bestimmungen seines Scheins zu, oder vielmehr sein Schein hatte den ganzen mannigfaltigen Reichtum der Welt zum Inhalte. Ebenso begreift die Erscheinung des Idealismus den ganzen Umfang dieser mannigfaltigen Bestimmtheiten in sich. Jener Schein und diese Erscheinung sind unmittelbar so mannigfaltig bestimmt. (Hegel, Logik, 1. Teil, 2. Buch, 1. Abschnitt, 1. Kapitel: Schein, B. Der Schein)
        存在は仮象である。仮象の存在は、存在の止揚存在においてのみ存立し、存在の虚無性においてある。この虚無性を存在は、本質において有し、存在の虚無性外には、本質外には、仮象は存在しない。仮象は否定的なものとして措定された否定的なものである。【…】このようにして、仮象は懐疑主義の現象であり、あるいはまた観念論の現象でもあり、また何かであったり、物としてあるような直接性ではないし、総じてその規定性外や主体への関係外に存在を想定されるような無関心な存在などではない直接性である。「存在する」とは、懐疑主義は言おうとしない。最近の観念論も、認識を物自体の知として見ようとしない。あの仮象にはそもそも存在という基礎があってはならない、この認識には物自体が入ってくるべきではない。しかし同時に懐疑主義ではその仮象に多様な諸規定を許容する、言い換えれば、その仮象はむしろ世界のまさに多様な豊富さをその内包としていた。同様に観念論の現象もまたこの多様な諸規定の全外延を自己内に概念把握している。あの仮象およびこの現象は、直接にそれほど多様な規定を受けているのである。(同上)

 ここで言われている懐疑主義とは、セクストゥス・エンピリクスなど古代ギリシャ哲学の懐疑主義で、近世イギリスのヒュームの懐疑主義ではありません。ヘーゲルによれば懐疑主義では、世界が二重化されて、現実の世界が真でない世界、仮象の世界とみなされることになります。ヘーゲル以前のドイツ観念論の現象についても、見方が正反対とはなりますが、同様のことが言われます。

        Diesem Inhalte mag also wohl kein Sein, kein Ding oder Ding-an-sich zugrunde liegen; er für sich bleibt, wie er ist; er ist nur aus dem Sein in den Schein übersetzt worden, so daß der Schein innerhalb seiner selbst jene mannigfaltigen Bestimmtheiten hat, welche unmittelbare, seiende, andere gegeneinander sind. Der Schein ist also selbst ein unmittelbar Bestimmtes. Er kann diesen oder jenen Inhalt haben; aber welchen er hat, ist nicht durch ihn selbst gesetzt, sondern er hat ihn unmittelbar. (l.c.)
        この内包には、言われるところに従えば、存在、物、物自体などが基盤とはならないことになっている。この内包は、対自的に、それがあるがままに存続する。この内包は、単に存在から仮象に移設されたものに過ぎず、その結果、仮象は、自己自身の内部において、直接的であり、存在し、他と相互に対抗する、あの多様な規定性を持つものとなる。仮象は、それゆえそれ自体直接的に規定されたものである。仮象には、あれやこれやの内包がありえるが、しかしこれら内包は、仮象自体により措定されたものではなく、仮象にはこれら内包が直接にあるに過ぎない。(同上)

 ヘーゲル以前の観念論の総括です。仮象は懐疑主義や観念論でいうところの現象です。ところが、これらは仮象や現象であって、その本来の現物とは何らの関わりもないはずであるのに、直接そこに存在して我々に関わってくるところに問題点があります。文中の内包というのは、一般的に言う内容のことで、論理学で概念を論じる時に、その属性としての内包(独 Inhalt 英 intension 仏 intension, contenu )と外延(独Umfang英extension仏extension, étendu )を区別します。「内包はある記号(言葉)が意義とする、対象に共通な性質のことであり、外延は記号の指す具体対象のことを指」します(ウィキペデイア)。言い換えれば、内包は属性で、外延は具体例ということです。

        Der Leibnizische, oder Kantische, Fichtesche Idealismus, wie andere Formen desselben, sind sowenig als der Skeptizismus über das Sein als Bestimmtheit, über diese Unmittelbarkeit hinausgekommen. Der Skeptizismus läßt sich den Inhalt seines Scheins geben; es ist unmittelbar für ihn, welchen Inhalt er haben soll. Die Leibnizische Monade entwickelt aus ihr selbst ihre Vorstellungen; aber sie ist nicht die erzeugende und verbindende Kraft, sondern sie steigen in ihr als Blasen auf; sie sind gleichgültig, unmittelbar gegeneinander und so gegen die Monade selbst. Ebenso ist die Kantische Erscheinung ein gegebener Inhalt der Wahrnehmung; er setzt Affektionen voraus, Bestimmungen des Subjekts, welche gegen sich selbst und gegen dasselbe unmittelbar sind. Der unendliche Anstoß des Fichteschen Idealismus mag wohl kein Ding-an-sich zugrunde liegen haben, so daß er rein eine Bestimmtheit im Ich wird. Aber diese Bestimmtheit ist eine dem Ich, das sie zu der seinigen macht und ihre Äußerlichkeit aufhebt, zugleich unmittelbare, eine Schranke desselben, über die es hinausgehen kann, welche aber eine Seite der Gleichgültigkeit an ihr hat, nach der sie, obzwar im Ich, ein unmittelbares Nichtsein desselben enthält. (l.c.)
        ライプニッツ観念論、カント観念論、フィヒテ観念論、さらにその他の観念論は、懐疑主義と同じく、規定性としての存在を、この直接性を超えるものではない。懐疑主義は、その仮象の内包を受け取るだけである。懐疑主義にどの内包があるべきかは、懐疑主義にとっては、直接的なことである。ライプニッツのモナドは自己自身からその諸表象を展開する。しかしモナドは生産し結合する力ではなく、諸表象はモナド内に気泡として立ち現れるのである。諸表象は相互に無関心であり、直接的に相互に対峙してあり、このようにしてモナド自身にも対峙している。同様にしてカントの現象も知覚の所与の内包である。それは触発を前提とする。触発とは自己自身に対抗し、まさにこのものに対して直接的であるような主観の諸規定なのである。フィヒテ観念論の無限の衝撃は物自体を基盤とはせずに、純粋に自我内の一規定となるとされている。しかしこの規定性は、この規定性を自我のものとなし、その外面性を止揚する自我に対して同時に直接的な規定性であり、自我の障壁であり、自我はこれを越えて行くことはできるが、この障壁はまたそれ自体において無関心な面を持ち、この点から言うと自我内にあるに拘らず、自我の直接的非存在を有しているような規定性である。(同上)

 ライプニッツのモナド(単子)論に関しては別稿で述べます。ライプニッツ以後の観念論では、カントの現象は物自体とは何らの関連も有しないため、必然的な仮象ではありえず、単なる仮象で終わってしまいました。これを克服しようとしたフィヒテですが、衝撃により現出した非我の障壁を乗り越えても、同じことの繰り返しが要請されるため、無限の衝撃の悪循環に陥ってしまいます(この節に関しては定在や自己意識の項も参照)。

        In der Sphäre des Seins entsteht dem Sein als unmittelbarem das Nichtsein gleichfalls als unmittelbares gegenüber, und ihre Wahrheit ist das Werden. In der Sphäre des Wesens findet sich zuerst das Wesen und das Unwesentliche, dann das Wesen und der Schein gegenüber, – das Unwesentliche und der Schein als Reste des Seins. Aber sie beide, sowie der Unterschied des Wesens von ihnen, bestehen in weiter nichts als darin, daß das Wesen zuerst als ein unmittelbares genommen wird, nicht wie es an sich ist, nämlich nicht als die Unmittelbarkeit, die als die reine Vermittlung oder als absolute Negativität Unmittelbarkeit ist. Jene erste Unmittelbarkeit ist somit nur die Bestimmtheit der Unmittelbarkeit. Das Aufheben dieser Bestimmtheit des Wesens besteht daher in nichts weiter als in dem Aufzeigen, daß das Unwesentliche nur Schein [ist] und daß das Wesen vielmehr den Schein in sich selbst enthält, als die unendliche Bewegung in sich, welche seine Unmittelbarkeit als die Negativität und seine Negativität als die Unmittelbarkeit bestimmt und so das Scheinen seiner in sich selbst ist. Das Wesen in dieser seiner Selbstbewegung ist die Reflexion. (l.c.)
        存在の局面においては、直接的なものとしての存在に対して非存在が同様に直接的なものとして生成し、これらの真理は成である。本質の局面においては、まず最初に本質および非本質的なもの、次に本質および仮象が対峙し、――非本質的なものおよび仮象が存在の残滓として対峙する。しかし両者ともに、さらに本質のこれらとの相違も、まさに本質がまず最初に直接的なものとして受け取られるところに存立し、本質が即自に存在するものとしてではなく、すなわち純粋な媒介または絶対的否定性として直接性であるような直接性として取られるのではない。本質のこの規定性の止揚は、それゆえ非本質的なものが仮象に過ぎず、本質がむしろ自己内に仮象を擁し、これは自己内における無限の運動であり、この運動は仮象の直接性を否定性と、仮象の否定性を直接性と規定し、このようにして仮象の自己内における現象として提示することにある。この自己の自己運動における本質は、反省である。(同上)

 この箇所は「定在」の項と重複するところもありますが、これは定在が必然的な仮象であるというところから来ています。そのため定在、また認識論的には自己意識の項も参照してください。

(続く)