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La source d'Ingres,  Paris  ©DeepStSky 

0052 Sein - being - être - 存在 II

2016/10/15 投稿

 ドイツ語の Sein (存在)は、日常用語では Dasein (存在・定在)があるため、この言葉のない英仏語やさらに日本語などと比べると、それほど使用頻度が高いものではありません。

 それでも英語やフランス語と同じように基本的には「もの」や「こと」の端的な存在や生存を表すものです。すでに冒頭で見たように人間の場合に「存在する」または「ある」と言うと、これは「生きる」ということと同じ意味ではありますが、抽象度としてはさらに高くなっています。

 有名なデカルトの「我思う、故に我あり」は、後の哲学関係の箇所で取り扱いますが、自動詞としての sein - be - être - ある、いる、おる、存在する は端的にその存在を叙述するという点では、数多くある動詞の中でも最も抽象的な動詞と言えるでしょう。

        Sokrates ist. (WPd) ソクラテスは、ある、いる、おる、存在する

 言語学者の中には、この be - sein - être - ある・いるという動詞は、後に述べる繋辞(コピュラ)と同形であるため、そちらの一部が欠落した形態であるというような珍妙な見解を唱える人たちもいますが、これは表に現れる形にばかり注目してその裏の構造に目が届かないところからくる誤謬でしょう。本用法におけるこの動詞は、existieren - exist - exister (存在・実存する)と同意義の歴とした本動詞で、ライオンズが言うように普通の動詞の用法からかけ離れた「主に神学や哲学の書物に限られ(mehr oder weniger auf theologische und philosphische Schriften eingeschränkt*)」た、「いわゆる絶対実存用法(„sogenannter absoluter existentieller Gebrauch“**)」などではありません。またヴァインリッヒのように「確定そのもの(„Feststellung schlechthin“***)」などと言うのも珍妙な見解で、それならばなぜ他の動詞でなされる確定がこの動詞の場合、その純粋な形態で現れるのかという合理的な説明がありません。また上記のライオンズなどは聖書の"Ich bin, der ich bin"(我は我なるところの者なり)****を神学的用法の例としていますが、この場合は繋辞ですから、動詞ではなく、せいぜいのところで助動詞になり、デカルトの「我あり」や「ソクラテスがいる」とは、全く違った用法です(「我デカルトなり」や「あれはソクラテスである」なら、主部と述部を繋辞で結んだものです)。これはヴァレンツ文法を奉じるヴァインリッヒも両者を混同している点では全く変わらず、

        Werde, der du bist (Goethe) *****
        君であるところの者になれ(ゲーテ)

の sein を存在の動詞と見ていたりします。

        *   Lyons 1983, S. 67        **   l.c.        ***   Weinrich 1993, S.114.         ****   Lyons, l.c.         *****   Weinrich, l.c.

 デカルトやソクラテスの例だけだと特異な哲学的用法かとも思われかねませんし、前述のハムレットでも演劇用語だなどと言ってくる人もいるかも知れませんから、日常的によく使われる一般の用法も見てみましょう。

        Ist [irgend] was? (DU, S. 2368) Ist [irgend] etwas? (DU OL) 
        まだ何か(ある)?
        War während meiner Abwesenheit irgendwas? (dito)
        留守中何かあった?
        Sind noch Fragen? (dito)
       まだ質問がありますか。
        Alles, was einmal war, heute ist oder einmal sein wird (dito)
        過去あったこと、現在あること、または将来にあろうことすべて
        Das war einmal. (dito)
       昔あったことです。もう昔の話です。
        Was nicht ist, kann noch werden. (dito)
       今はなかっても、将来にあることは可能である。
        Was ist, wenn ein Schornsteinfeger in den Schnee fällt? – Winter. (http://1a-flachwitze.de/)
        煙突掃除人が雪の上に落ちたら、何だろうか――冬です。

        Muss das sein? (DU OL)
        そうでなくては、いけないの?
        Das kann doch nicht sein! (dito)
        ありえないことだ!
        Was sein muss, muss sein (dito)
       なくてはならないことなら、なくてはならない。

        "Wir können nicht nach dem Motto verfahren: Was nicht sein darf, das kann auch nicht sein", gibt einer de Ermittler zu Protokoll. (SZ, Annette Ramelsberger, 14.10.2016)
       ある捜査担当官は「我々は“あってはならないことなら、またありえない”などというモットーに従ってやってゆくことはできない」と証言した。(『南ドイツ新聞』アネッテ・ランメルスベルガー)

        Es sei! (oder) So sei es denn!  (DU OL)
        そうであれ!そうあれよかし!かくあれかし!
        Wenn ich bin, ist der Tod nicht; wenn der Tod ist, bin ich nicht (Lukrez)  (Weinrich, l.c.)
        我あらば死あらず、死あらば我あらず(ルクレティウス)

        "Was  ist Sein?" - Martin Heideggers Frage nach dem Sinn von Sein ist philosophiegeschichtlich legendär und hat es sogar zur Verarbeitung in einem Rap-Song gebracht.(FAZ, Hannah Lühmann, 23.07.2013)
        「存在とは何か」――マルティン・ハイデッガーの存在の意味への問いは、哲学史における伝説的存在であり、今やラップの歌詞にまで取り入れられるに至った。(『フランクフルト総合新聞』ハンナ・リューマン)

        Die Bewohnbarkeit eines Himmelskörpers ist eine Episode in seinem kosmischen Sein. Und würde das Leben noch einmal fünfhundertfünfzig Millionen Jahre alt – am Maßstabe der Äonen gemessen ist es ein flüchtiges Zwischenspiel. (Th. Mann, Reden und Aufsätze 1952, W. X 384; 11,303)
        ある天体が居住可能かは、その天体の宇宙内存在における一挿話にしか過ぎない。生命がもう一度5億5千万年生きられようになったとしても――永劫の尺度から見れば、些細な幕間劇に過ぎない。(トーマス・マン)

 フランス語でも状況は同じです。戦後まもなくジャン・コクトーが自伝的な作品を発表しましたが、その題は „La difficulté d’être“ (『存在困難』)と言うものでした。

 上記の「存在」もものことの存在を表しますが、ごく抽象的な捉え方です。ドイツ語では時空的に限定されている場合には、同じく「存在」と言っても Dasein やその動詞形 dasein を使います。名詞の Dasein については、 Dasein の稿をご覧ください。ここでは動詞形についてのみ見てみましょう。

        Sie ist immer für die anderen da. (DU OL)
        彼女はいつも他の人のためにいる。

        So etwas ist noch nie da gewesen. (dito)
        そんなことが、あったためしはない。

        Bist du noch da? (dic d-e )
        Are you still around? (ditto)
        まだいるの?

 この最後の例などでは何かその辺にたむろしているみたいですが、独英語では「やって来る」という経過よりも、その結果を重視しているようです。

        Anna zuckte zusammen, als er ihr die Hand auf den Arm legte. Als hätte sie auf ihn gewartet, sagte sie aber nur: / "Da bist du." / "Ja, da bin ich", Matteo räusperte sich. (Varese, Lago Maggiore, S. 274)
        (背後から来た)彼がその手をアンナの(胸の前で組み合わせた)腕に重ねると、アンナは一瞬ぎくっと身を震わせた。アンナはあたかも彼を待っていたかのように、それでも一言つぶやいただけだった――「来たのね。」「うん、来たよ」と、マッテオは声をかすらせた。(ヴァレーゼ『マッジョーレ湖』)

 別の状況ならば、「いるの?」「うん、いるよ」でもいいでしょう。フランス語にもよく似た使い方があります。

        Qui est là? (dic f-d)
        Wer ist da? (dito)
        誰?誰がいるの?誰だ?

        la maison qui est là (idem)
        das haus dort (dito)
        あそこの家、あそこにある家

 英語の there is でも同様にものやことの存在を表しますが、その場合、英語では dasein や être là と同じように存在する場所を表す there または here を付け加えたとも見ることができます。

        Here we are!
        Da wären wir!
        着きました。

        Here (There) you are!
        Da hast du's!
        ほら、言わんことじゃない!

        There they are! Pepe cried, when he saw the dump kids. (Irving, Avenue, p.384)
        あ、いたいた!(あそこに、来た!)ペーペがゴミ捨て場の子たちを見つけて叫んだ。(アーヴィング『奇跡の街道』)

 このようにドイツ語以外の言語での物質的 Sein には普通時空制限が付随します(時間は当然のこととして捨象される場合が多い)が、これは時間と空間がそこに物体が置かれている存在様式ですから、当然のことと言えましょう。

        "I am where I always am," Lupe was always saying. (Irving, Avenue, p.555)
        「私はいつもいるところにいるの」とルーペはいつも言っていた。(同上)

 何かがあるということは、それは常にしかるべき理由があってあるのだということになりますが、これを論理学では充足律または充足理由律(Satz vom zureichenden Grund - Principle of sufficient reason - Principe de raison suffisante )と言っています。人間や生物を見ると、それぞれその親から生み出されたものです。その親もまたその親から生み出されたものです。これを無限に遡ってゆくと悪無限となりますから、いい加減のところで切って、親一般の根拠と言うことでそれらとは別次元の創造者が考えられたりもします。独仏語の es gibt や il y a などの場合もものの存在を表しますが、es や il で示される何かがものをあらせしめるというような構造になっています。この不確定主語は、大自然だったり、神さまだったり、創造者だったりと、とにかく何かと知識不足だった未開の時代の存在論から来ているのでしょうか。ドゥーデンの文法書でも、このあたりは見解が分かれるところであると述べられています。

        Während manche Forscher dem es gar keinen inhaltlichen Wert zuerkennen und es als reines Formwort oder Scheinsubjekt bezeichnen, erblicken andere in ihm den sprachlichen Ausdruck für das Wirken unpersönlicher, irrationaler oder mythischer Kräfte. (Duden, Grammatik, S. 555)
        学者の中では es に内容的な価値を認めようとせず、純粋な形式のみの語または擬似主語と呼ぶ人々がいる傍ら、非人格的・非合理的・神話的諸力の作用の言語的表現とみなす人々もいる。(ドゥーデン、文法)

(続く)